谷川健一の『日本の地名』を読み直している。
それらの地名分析が、正しいのかどうかなどはわかるはずもない。
なぜなら、日本語の単語の、特に古代の言葉などは、どこから来たかなど、正確ににわかるはずもないのである。谷川は、しかし文学的な、あるいは民俗誌的な、またときには考古学的な例証をあげながら、地名の起源を「推量」した。推量でしかないものを、推定して、あれほどたくさんのシンパを持てた。それはカレと、それを読む読者に、あまりにも情報が少なく、文系の人々がそれをなるほどと思っただけだろう。果たして、彼の諸説はそれでよかったのか?


日本語で浜m砂浜を表す言葉「オタ」を、谷川はこの本の中で、疑いもなくアイヌ語起源だとしている。しかしアイヌとはなんなのかがはっきりしていない。それが縄文人の子孫だったのか、あるいはのちの蝦夷の祖先だったのか、決められてはいない。
ゲノム分析でそれが明確かどうか、縄文人や蝦夷たちと同じゲノムの人々か、そして言葉は共通だったのか、なにもわからないで、谷川はオタはアイヌ語だろうとするばかりである。


しかしもしそれがアイヌ語であっても、アイヌの北海道東部以南への移動が、往古確かにあったのかどうか、どうやれば調べが付くのだろう?考古学的に、共通する遺物でも本州以南から出てくるのだろうか?そして彼らはどうやって蝦夷になったと言うのか>あなたにわかるだろうか。はっきりと、絶対にこうだったのだと、誰か言える人はいないか?


以前「オタクサ」の語源について、静岡の浜に咲いていた、日本のアジサイの原種について、ある仮説を書いたことがある。少なくとも東海地方は縄文、蝦夷文化圏なので、アイヌも南下していてもおヵしくないが証明は不可能だ。当然、異論はあった。しかし誰にも証明できないその花の名前を、いったい外国人学者はどのようにsて決めたのか?谷川はオタは浜だと書いたが、アジサイの語源だとは書いてはいなかった。なぜオタはアイヌ語だとしか書かぬか?アイヌ語が蝦夷語と共通なら、それが蝦夷語だと言ってもいい。しかし蝦夷語などもはや誰にも知るすべがなく、アイヌしか生き残ってはいないから、アイヌ語とするしかなかった。だが蝦夷語でもよかったかも知れない。また縄文語でもいいのかも知れない。


少なくとも、筆者は、またこのブログは、それが当たり前だと思われてきた常識のうそを、まったく異なる仮説によって覆すのをひとつの目的としている。だからアジサイをオタクサとしたのは、本当に妻の名前でいいのか?と世間に問うたのである。




それはそれがいいとか、正しいとかに意味はないことであった。ただ、常識に甘んじることの危険性を、アジサイを題材に、ちゃぶ台をひっくりかえすように、新説を書いてみただけである。

ところが、妻お滝とオランダ人シーボルトとの純愛を、人々は大いに主観的に、なんの根拠もなく信じており、信者のように決め付けて、反論してきた。まことにおそまつな話である。しかもなにひとつ確実な証明すらしてくるものがなかった。これは間違いないという正論で向ってきたら、素直になるほどあなたは正しいとしただろうが、そんな高尚なる論者が現れてくれない。喝破できないのなら、それは筆者の論となん変わらぬ推量でしかない。しかも日本の一植物学者が、たったひとり「そうに違いない」と感情的に推定した、たったそれだけの理由で信じ込んでいる。そんなものが学説でもなんでもなかろう。


まずオタとは本当にアイヌ語かどうか。日本の地名にアイヌ語なるものが本当に影響したのかどうかである。


NHKテレビの「日本のお名前」なる番組は、最近では人名などまったく無視して番組を作り出した。当たり前である。人名の謎を紐解けば、どうしてもそこに子だ、中世、近世の被差別までちゃんと言う勇気、人名の根源が間違いなくそうであることを、反論なき喝破で切るだけの学問と実証がなければ、その人名を持つ人々からのクレームの山になるはずなのである。最初からあの番組には無理が会った。しかし地名はそうではない。さて、そういう覚悟の必要がない地名だが、ほとんどはうその定説で固められている。誰にもとけないから、そうなったのである。それはひとえに地名学者の怠慢である。


そもそも地名、人名学など、どれもこれもいい加減な推量ばかりでできている。誰がそれを唯一の正解で解くことが出来るのか?反論も、なにを根拠に反論するのか。どいつもこいつもいい加減な学者ばかりだとは思わないだろうか?
















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