次の皇太子になられる秋篠宮の、宮内への提言は正しいと感じる。
それが民主主義の今だからこそ、そう思う。
しかし、この民主主義そのものは、果たしていつまでもつのかどうか、最近かなり不安でもある。

天皇と皇族は、失礼だが言わば国家の予算で生きておられる。
民主主義的に言えば、それは「政府・国家の庇護の下にあって、不自由だ」ということでもある。

天皇は戦後「人間宣言」せられた一個の人間であると同時に、戦前のイデオロギーからの「神の代弁者」「シャーマン」という立場でもあるだろう。その職務は、国家の安寧を祈ることしか与えられていない。

それをわれわれはどう見たらいいのか?

ある意味で、皇族には、一切の「国民の一人としての」与えられていてしかるべき憲法上の自由と、政治や宗教への発言の権利がない。国家予算によってある意味で「皇族は囲い込まれてしまった存在」であり、海外の国王とはそこがまったく違う。


それを、われわれはどう思うべきなのだろうか?


すくなくとも天武天皇が天皇制を開始して1300年。
しかしそれは藤原宮内が創り上げた藤原のための天皇制であったことはこれまでの分析から自明の理。天皇も皇太子も、なにひとつ語れない傀儡であることは、天武創始の頃となん変わってはいないのだ。


その皇族を、あなたは哀れみ、助けるのか?それとも、なくてもいいものとするのか?あるいはまた、崇め奉り、古代のままの神の代弁者としておくのか?それがこれから問われる時代になっていくことだろう。



年間25億の税金からの生活費を、ただ受けるだけの、彼らをそれこそ生活保護者と見るのだろうか?そこに哀れは感じないか?そして哀れとは、国民が皇族を、変わらずに、あたかも相撲のようだが、維持していって「あげられる」ゆとり・・・世界でたったひとつのゆとりと感じてはならぬのだろうか?

右とか左のイデオロギーからではなく、彼らを「もののあわれ」の象徴と見たとき、皇族こそが日本であることを知った覚えがある。人でもない、神でもない、囲われて、不自由な、この国の象徴・・・。


秋篠宮の提言は、実は戦前から宮内が、第一と考えてきた天皇を中心とする「いまだに残存する国体思想」そのものに対する、皇室自らの自問自答ではなかろうかと思う。

それは戦後、なくなっていてもおかしくなかった、古く、敗北した、思想だったはずだ。宮内には自由主義が理解できないようである。国民全体が自由になったとき、皇室もまた拘束からトキハナタレタルものでなければばらなかった。政教分離を謳いあげながら、憲法は、そこに不思議さがある。皇族には選挙権もなく、人権もない。それをわれわれがおかしいと思わないことこそがおかしいのではなかろうか?



私的には、税金ではなく、つまり国が皇室を庇護するのではなく、国民が基金を持ち寄り、皇室を庇護することこそが民主主義になりはすまいかそしてそのほうが、もしや金額は大きくなりはすまいか?神社にお賽銭、皇室にだってそれがあっていい気がする。