茨城県の地名。読みは「なめがた」。茨城県行方市、行方郡。
磐城国にあった郡。読みは「なめかた」。行方郡→福島県相馬郡
岡山県の地名。岡山県勝田郡奈義町行方(ぎょうほう)→ 豊並村

地名には奈良時代の律令制前、江戸時代の藩制前、明治時代の郡県制の国や藩や県の区分とは無関係に、今の県境・国境の隣接したところに、同じ地名が存在するケースはけっこうあるもの。それはつまり律令制度以前には、そこは同じ民族がいた地域か、あるいは地形が同じようなところだったという着想で考えないと、古代史の場合、なかなか難しくなる。要するに、奈良時代以前にそこにいた人たちは、往古は同族っだったかも知れない(律令制・藩制・郡県制で分かたれた)、という着想があなたに持てるか持てないかということだ。それを森浩一は「越境する古代学」と言った。







なぎ地名は、ここが内陸であるにも関わらず、かつて渚があったことを髣髴とさせる。



いい例証として行方をあげておくが、ほかにも宮城県と岩手県の双方に、気仙(けせん)地名があったりするから油断できない(けせんとはまずは毛である。毛とは縄文人=毛人 (もうじん) がいたという意味。下毛野、上毛野の毛と同じである)。また人名がリンクする隔絶地域もある。佐藤とか河野という西日本にあるべき人名が東北や北関東や北海道には多い。

そして面白いのは、双方の、今の県民たちの多くが決まったように「あっちは違う」のだと言うことだろう。行方の場合、音訓ではっきりと、茨城では「なめがた」、福島では「なめかた」と濁る、濁らないで、いつの頃からか区分、区別してきたようである。しかし茨城県民は茨城を「いばらき」と読むのだとするのに、行方は濁るのは奇妙である。

筆者の旅の経験では、濁る、濁らないの揉め事は全国的にあって、岐阜県では白山を「はくさん」と言う地域と、「しらやま」と言う地域は、隣接するのになぜか区別し、仲もよくなかったりしている。これは信仰と身分の問題であるとやがてわかってきた。「しらやま」のほうは部落だった地域なのである。濁らないという習慣は、有名なところでは京都、平安時代に顕著な、日本語発音の傾向で、やんごとなき天上人たちは、濁音を嫌う傾向が強かった。それと地方が同じかと言うと、やや複雑である。おそらく思うことは、貴種・王族を自分たちの祖先としたかった人々や集落が、かつてあって、そのまま続いているということはあるようだ。飛び地のように今は見えるところもある。またはるかに離れた東西に同じ地名がある場合もある。


しかし、縄文から古墳時代を考えるとき、それぞれが別々の民族だったとすると、考古学の発掘での共通性はどうしても説明しにくい雰囲気が地元にはあるのは、非常に邪魔になる。研究者が講演会などで、そういうことを言い始めると、違う、違う、別だ、別だ、一緒にするな、となって、手がつけられないでは、学問がそれ以上進めなくなってしまいかねない。それが困るのである。

かつてそこはつながっていて、同族の民族が集住しており、やがてどちらかが区別される歴史があったことに気づくべきである。行方がなぜ隣同士以外にも、岡山県にもあるのか?そこにはどんな歴史があったかを、調べてみるのは、そこに住むみなさんの責務ではないか?

東北に奈良時代から山ほどの、西日本や近隣北関東からの屯田が入ったことなどよい例である。それをはなから、西日本の地名や人名は「まったく関係なかった」と決め付ける研究好事家は多い。年長者、高齢者に多いのは、仕方がないでいいのかどうか?


そこに甘んじていて、それで研究者・好事家のつもりなのだろうか?発想を変えられないのなら、自ら去るべきではにか?



国や郡や藩や県などは、弥生時代・古墳時代以前では通用しない。そしてそこに「なぜ?」がある。そこに気がつかない人は、古代史などやるべきではないだろうと、筆者は常に肝に刻んでいる。越境の古代史学とはそういうことなのである。




ちなみに「なめかた」とは?
この地域を考えるときは、まずは広大な湿地帯と河川、湖沼が、代々、増減していた地域であることを考えねばなるまい。岡山県の奈義町行方は今は内陸だが、湿地帯であるとともに、今はダムができている土地で、ここが縄文海進時代、海、あるいは潟で、それに近い地形があった可能性を感じさせる。潟。茨城県と言えば霞ヶ浦は巨大な潟湖であり、およす数十年で、かつての浜や海水浴場が、ただの池になってしまうことが山ほどある土地柄だ。なめとは潟湖をなめるような地形であろうと推量する。


にいがたの潟などもそうだろう。日本海は潟湖が多かった。八郎潟の秋田もそうだ。
日本一の潟湖は瀬戸内海・日本海もそうであるし、琵琶湖もそうだったのだ。宍道湖もそうである。