山田神社

式内山田神社由緒概要
彦根市宮田町鎮座
一 祭神 猿田彦大神 誉田別大神
  多紀理毘売命 多岐都比売命 市杵嶋姫命
一 由緒
當社は孝安天皇の御代の創建にて、大彦命、日本武尊坂上田村麿、等皇族武將の尊崇を享けたと古記に伝えられている。醍醐帝延喜の制を定められるや、式内社に列せられ官幣の官祭に預る。又後伏見帝正安四年勅額を賜う。永録二年小野荘内十三郷より十二基の神輿を奉納せるも、其後数回の兵乱に遭い、今は僅に其の一基を残している。
慶応4年月幟仁親王御親筆の額を賜う。明治26年3月内務省より古社保存資金の供進を受く。大正4年5月縣社に加列。昭和16年10月本殿、拝殿、透塀、渡廊、等の造営竣工。昭和43年11月本殿、拝殿、透塀、渡廊、手水舎等の銅板葺替竣工。昭和47年11月社務所竣工。


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山田神社 彦根市宮田町下沢
祭 神  猿田彦大神 譽田別尊 三女神(多紀理比賣命 市杵島比賣命 多岐都比賣命)
神 紋  左三ツ巴
境内社  仲哀神社 皇后神社
由 緒
  社伝に、孝安天皇の御宇、猿田彦大神の神霊初めて此地に降臨ありて神籬を造り之を斎き祀る。次に皇極天皇の朝に、
  息長山田公あり坂田郡に縁由ある人なれば山田氏の族其祖先の誉田別尊及び三女神を従来祀る所の猿田彦大神に配祀し
  山田神社と称した。延暦二十年坂上田村麿が東征の途次本社に戦勝を祈願し、凱旋の後、社殿を建立す。
http://achikochitazusaete.web.fc2.com/sikinaisha/sakata/sakatan.html

…また近江・越前を基盤として大王位についた継体天皇の擁立にあずかったとする説が有力であり,このころから中央氏族としても進出していった。舒明天皇の和風諡号(しごう)も息長足日広額天皇であり,642年その喪のときに息長山田公が日嗣(ひつぎ)の誄(しのびごと)を奉った。しかし,外戚氏族として政治に参画するというよりは,皇親氏族としての性格にとどまった。…

                                                                       









神社には二種類ある。
国家が『日本書紀』以後、各地に押し付けてきた『日本書紀』イデオロギーと政治的な神社。

それ以前から、各地の氏族や民衆が在地で祭ってきた神社。



山田神社は典型的な『日本書紀』イデオロギーの嘘を押し付けた神社。
しかし、それ以前には、ここには在地の神が祭られていたことだろう。




たとえば有名なところで、茨城県の鹿島神宮。
ここにタケミカヅチとかいう「押し付け神」が地震の神として祭られたのは、せいぜい江戸時代。持統の朝廷が送り込んだ、これまた大彦子孫をいいつのり、諏訪では諏訪氏、阿蘇では阿蘇氏と変幻自在だったえせシャーマンの阿蘇氏が「押し付けた」わけだが、もっと前に、『日本書紀』天孫降臨、国譲りの正当化のために茨城(うまらぎ=馬牧)の神があったのに、まあ、けっつまらんことに、タケミカヅチなる藤原氏のための架空の神を祭ってある、実にその意味ではくだらん神社である。


出雲国譲り神話で、タケミカヅチとフツヌシは、『日本書紀』が言う、蘇我氏滅亡のヒーローである鎌足と天智を意味している。


要するに国家神道なぞは、『日本書紀』、藤原不比等の、勝手に創り上げたイデオロギーに、まるで朝鮮・韓国の儒教さながら、いまだに固執する、ゼンセイキの遺物だと言うしかない。もはや無用である。



文句があるなら、それはおまえが右翼の証拠だわ。