「藤原不比等は、天智天皇から藤原氏の姓を賜った藤原鎌足の子である。文武天皇2年(698年)には、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことができるとされた。不比等の従兄弟たちは、鎌足の元の姓である中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当することと明確に分けられた。このため、不比等が藤原氏の実質的な家祖と解することもできる。

天智天皇の皇胤説
前述のように不比等は実は鎌足の子ではなく、天智天皇の落胤であるとの説がある。『公卿補任』の不比等の項には「実は天智天皇の皇子と云々、内大臣大職冠鎌足の二男一名史、母は車持国子君の女、与志古娘也、車持夫人」とあり、『大鏡』では天智天皇が妊娠中の女御を鎌足に下げ渡す際、「生まれた子が男ならばそなたの子とし、女ならば朕のものとする」と言ったという伝説(実際に男子=不比等が生まれた)を伝える。『帝王編年記』『尊卑分脈』などの記載も同様である。

平安時代まではこの伝説はかなりの信憑性を持っていたと考えられ、『竹取物語』でかぐや姫に求婚する5人の貴公子の1人車持皇子のモデルは不比等とされている。これは、母が車持氏出身の皇子、という意味の名である。

歴史学者の間では皇胤説の支持は少ないが、もし本当に皇胤であったとすれば、後の異例とも言える不比等の出世が、天武天皇・持統天皇代に行われた皇親政治(天智・天武系皇子を朝廷の要職に就け、政治の中枢を担わせた形態)の延長として考えることも可能になるとして、支持する学者もいる。」Wiki藤原不比等

 
ちなみに大山誠一は鎌足は大職冠など授かっていないと考えている。しかし、彼は不比等があくまでも草壁皇子の血統にこだわったと考えていて、天智血統こそが大事(藤原宮の真北つまり太一=北極星=皇祖として墓が造られているのが証拠)だと考える筆者とはそこが相容れない。また大山は武内宿禰を不比等は鎌足に見て描いたと言うが、そこもやや疑念はある。息長系である景行とヤマトタケル、神功皇后の熊襲征伐と武内宿禰の宰相としての表現が、藤原氏の蘇我氏誅殺に当たるとするなら、大山の説は正しいかも知れないが。



「藤原不比等の母の詳細が不明です。
鏡王女説、車持与志古説です。
不比等は竹取物語の5公のひとり車持皇子のモデルとされるので、平安時代は不比等の母親は車持与志古で、父親は天智天皇との認識があったようです。
車持与志古は最初天智の側室で、後に中臣鎌足と再婚しますが、再婚前に不比等が胎内にいたという説が有力です。
一方、鏡王女も最初「中大兄皇子」 の妃とあり、「尊卑文脈」では、不比等の母親は鏡王女とします。
いずれにしろ、不比等は鎌足にとって変則的な連れ子(胎内連れ子?)だった説が最有力ということになります。
ただ、ここも微妙な時間軸で、不比等659年生まれとすれば、白村江以前のことであり、実の父親は「中大兄」ということになります。
ただ、私の説では天智=新羅武烈王、鎌足=新羅将軍金庾信ですから、不比等を新羅生まれとすれば、武烈王の実子ということになります。
確かに、出世があまりにも遅い点、持統天皇の時代になってはじめて日の目を見ることから、倭国皇子の末裔がゆえにということも考えられます。」
https://plaza.rakuten.co.jp/systemwelware/diary/201209180000/


この説はいわゆる「ありがち」な愉快説である。
しかし、不比等が本当に母親の腹の中にいた状態で母が鎌足にとついできたとすれば、それはまるで胎中天皇と呼ばれた応神天皇を彷彿とさせるエピソードになるだろう。そのコンプレックスが不比等に応神・神功皇后、引いては河内王朝と言う架空王朝を考え付かせたと。おもしろい。



確かに父・鎌足自体、一巳の変以外、なんの実績もない人物で、そのヒーローとしての実像は、ほぼ中臣大島と不比等が描き出した虚像だと考えられる。まず藤原姓は天智が鎌足のみに与えたと『日本書紀』が書くにも関わらず、不比等は藤原を名乗っていることは、鎌足が藤原をもらったこと自体が怪しく、当時、かばねではなく、氏姓を持てる人物などほとんど存在しなかった時代なので、まずは藤原氏姓を名乗れたのはよほどの権力者でなくてはならない。

物部や中臣などはみな「かばね」であって苗字ではない。苗字は天皇から特別に与えられねば名乗れなかった。あるいは土地の名をそのまま分家はかばねとして名乗っており、苗字ではない。苗字とはもともと中国の風習である「あざ名」だった。名字は、元々、「名字(なあざな)」と呼ばれ、中国から日本に入ってきた「字(あざな)」の一種であったと思われる。公卿などは早くから邸宅のある地名を称号としていたが、これが公家・武家における名字として発展していった。近世以降、「苗字」と書くようになったが、戦後は当用漢字で「苗」の読みに「ミョウ」が加えられなかったため再び「名字」と書くのが一般になった[要出典]。 参考Wiki名字

ちなみに平民が名字を持てるようになったのは明治時代から。だから日本人の大半の名字は明治以後、勝手に平民が名乗ったもので、貴族や武家の名字とは、まったく無関係だと考えたほうがいい。たとえ藤原さんであっても、ただ地名名乗りであると考えるのが無難である。なお、天皇には平民同様姓名がない。理由は、姓名とは天皇が民にさずけるもので、天皇がさずかることはなかったからである。柳田國男らは、天皇とは「もうひとつの被差別者」と言ったこともあるが、姓がないという点、また人間ではない(神だった)という点で、確かに両者は似通っているものの、天地の差、雲泥の差があったのは否定できない。

藤原不比等がおそらく天智など関係なく、実権のすべてをつかんだから藤原という宮都の地名をなれたのだろう。しかし地名藤原は、大坂の藤井寺がそうしたように、もとは葛の文字を当てており、湿地であったことは間違いない。ゆえに宮にふさわしく藤に変更してのちに名乗ったに違いない。ということは、『日本書紀』鎌足のイメージは虚像であることも間違いない。

考えてみていただきた。一巳の変とはなにかを。筆者はこれを正当化したのが、ヤマトタケルや景行天皇の熊襲征伐だと考えている。あるいは神功皇后が新羅征伐といいながら、九州に入るとすぐに、やはり南の熊襲であろう地域を攻めようと言っている。何度も何度も、なぜ熊襲だけが、出雲でえ一度きり書かれたものを、熊襲だけは何度も征伐されるのである。なぜ彼らは何度も殺されるのか?それが藤原の敵だった蘇我氏の国家であり、祟るように殺したからではないのか?

そもそも藤原氏とはいったい誰なのか?中臣氏でいいのか?これも確定してはいないのだ。まずもって不比等は母親がわからない。われわれは知っているつもりになっているだけである。調べてみるといい。