●紀氏・・・紀直・紀臣・木部(岐部)などの集合体氏族である。
紀貫之、友則、大人などが有名。 
 推定出身地・・・肥前國基肄郡 きいの・こほり、 あるいは伽耶小王国の安羅(『日本書紀』の言う任那みまな)あるいは紀州和歌山県紀ノ川河口部南北岸(大谷古墳・岩橋千塚古墳)つまり名草郡、海部郡、有田郡、大阪府の淡輪(たんのわ)などなど。


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スイジガイを象った王冠を被る埴輪・岩橋千塚古墳

スイジガイを幾何学的にしたのが九州装飾古墳に描かれたスイジガイの双脚輪状文
である。それが最大数描かれた古墳は、福岡県桂川町にある王塚古墳である。

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つまりこれが紀氏のステータスシンボルであり、九州出身であった一級証拠品。


※みまなとは・・・「朝鮮半島における倭国の北端(→北岸Kawakatu)である、『三国志』魏書東夷伝倭人条の項目における狗邪韓国の後継にあたる金官国を中心とする地域、三韓の弁辰、弁韓および辰韓の一部、馬韓の一部(現在の全羅南道を含む地域)を含むと看做すのが通説である。任那諸国の中の金官国(現在の慶尚南道金海市)を指すものと主張する説もある」 Wiki任那より

Wikiはいろいろ書いているが、要するに安羅のことである。
決して『日本書紀』の言う様な「任那」や「日本府」というものがあったのではなく、そもそも伽耶は、どこにも属さない各国からの邦人の小国家の集まっていたコスモポリタンであり、その中の安羅・・・釜山周辺に倭人がごっそり住んでいた。理由はさまざまな産物確保だろう。鉄や漁業。やがて東部は新羅に、西部は百済に切り取られ消滅する。そのとき『日本書紀』では葛城襲津彦と秦氏120部がやってきたとあるが、もちろん伽耶諸王族も亡命したことだろう。だから秦氏支配者も、実は伽耶の一王族であり、その臣下であり、あるいは世話をしていた職人たちであったのかも知れない。

任那の表記を分析すれば「任された国」で、『日本書紀』イデオロギーそのままである。読みは朝鮮語で「にんな」。日本語で「みまな」と訛っただけ。勝手に占有していたことは魏志に「倭は伽耶の鉄をほしいままにしている」とあるから明白。その当事者が葛城や紀氏であろう。



紀氏はもともとは木部であろう。海人族なので船材の樹木には詳しい。そこからイタケルの種をまいた神話が出る。

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民族学伝承ひろいあげ辞典オリジナル


●出身地肥前説の証拠品
●肥前基肄郡・・・佐賀県三養基郡基山町宮浦の荒穂社を最古基盤とし、孝徳天皇時代(7世紀中頃)に創祀された郡と伝わる。『日本三代実録』に貞観2年(860年)に、従五位上から正五位下に陞叙された記録があり、延喜の制で国幣小社に列した(式内社)。明治6年(1873年)に郷社、昭和3年(1928年)に県社に列格した。 基肄郡は明治初年時点では全域が対馬府中藩領であった。「旧高旧領取調帳」の記載によると、酒井東村、酒井西村、飯田村、姫方村、永吉村、田代村、神辺村、萱方村、長野村、柚比村、小倉村、宮浦村、園部村が存在。(13村)

基肄郡はもとの表記は基ひと文字だったが、孝徳朝までに、中央で良字二文字表記の命によって基肄郡となった。いずれの文字も「もと」という意味があり(角川「新字源」より)、ここが木部集団発祥の地であったことを思わせる。

■荒穂神社(あらほのじんじゃ)



佐賀県三養基郡基山町宮浦に鎮座する神社である。社格は式内小社、県社。 『延喜式』神名帳記載神社。基山町(きやまちょう)は、佐賀県東部の三養基郡に属する町。周辺の鳥栖市や福岡県小郡市、久留米市とともに、一大経済圏を形成している。
主祭神・瓊々杵尊
配神・鴨大神・五十猛命
のちに付加されたであろう配神・八幡大神、宝満大神、春日大明神、住吉大明神

祭神を見ての通り、この社が明らかに紀氏・鴨氏ら武内宿禰氏族の枝族が祭っていたとわかる。
紀氏(きの・うじ)は、もとは木氏で、その意味は「朝鮮半島新羅から木種を持ち帰り、父スサノオとともに紀州にまいた息子・五十猛(イソタケル・イタケル)に由来する氏名である。


●紀氏同族平群氏
畿内・中央では、大和国平群県紀里(現在の奈良県生駒郡平群町上庄付近)を本拠とした古代豪族である。姓は初め臣(おみ)であり、天武天皇13年(684年)八色の姓制定に伴い朝臣へ改姓した。 平群(へぐり)氏はのちに同族。平群氏には平群谷に古い古墳がなく、先行した中央豪族だった紀氏の力で中期以降になってようやく平群に古墳を持ったが、その規模は小さく、記紀にもその名はわずかしか出てないので、小集団であるが、近畿では早期に横穴式石室を導入しており、九州や半島百済南部の光州前方後円墳を造った筑紫系倭人氏族との接触があったことが思われる。紀氏は、朝鮮半島南部、光州から伽耶の安羅にいたと考えられ、葛城氏同族である。荒穂神社に鴨の神が祭られていることから、紀氏と鴨氏、葛城氏などとの同族化は安羅で起きていたのは間違いなかろう。


平群西の宮古墳・横穴式石室外観


さて、紀氏は基肄郡から太平洋周りで、南九州や豊後各地、土佐などを経由して紀伊半島に入ったと考えられ、その足跡に、石棚を持つ横穴式石室のある古墳や、国東岐部などの地名を残していった。大分県、和歌山県に木、紀関連だけでなく海部郡を共有していることは、紀氏たちが海部集団という海人管理にあたっていて、のちに天武以後律令制で海部(あま)が成立したときには、ほかの氏族(尾張氏や日下部氏ら)とともに、一部が中央が各地に置いた海部のひとりとなったのだろう。その後、紀ノ川河口部から葛城、纒向、飛鳥へと進出し、倭五王時代までに京都市桂の物集女(もずめ)あたりまで進出(考古学の土器淡輪技法の紀ノ川河口北部淡輪古墳群から桂へと流れた先)。宇治市から伏見区はかつて山背國紀伊郡であった。ただし考古学的にはすでに3世紀には、巨椋池北部、今の宇治市市街地小倉や伏見区深草に朝鮮式の遺跡が見られ、これが果たして紀氏のものか、あるいは渡来人秦氏のものか決定できない状況。秦氏の渡来には葛城襲津彦が関わっている記録があるから、同族の紀氏もともに京都に入る可能性は大であろう。


●壱岐氏
安羅から帰るとき、舟は必ず壱岐・対馬に寄港する。壱岐には中臣氏の中にあって祭祀を執り行い、忌部氏とともに中臣神道の中心的存在となっていたシャーマン壱岐氏がいたはずで、壱岐は海士(男性あま)発祥の地であり、月読信仰の発祥地でもあるから、忌部とともに壱岐氏もまた紀氏一族、武内宿禰氏族との関わりがあったに違いない。その壱岐氏と秦氏が京都の松尾で並んで住む隣保班であるのも面白い。


●紀州の須佐地名
なお和歌山県有田市に須佐がある。須佐神社があってスサノオが祭られている。これも紀氏によったものではなかろうか?つまりやはりスサノオもイタケルも紀伊の神々だったのを、無理やり『日本書紀』は出雲の成立神に仕立てたと見て良いだろう。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E4%BD%90%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E6%9C%89%E7%94%B0%E5%B8%82


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有田市・須佐神社
ありだと濁る地名は、葛城支族の蟻の臣を思い出させる。

和歌山はそもそも国生み神話の舞台である淡路島に対面しており、ロケーションとして紀氏からの神々情報を受けてぴたりとはまったに違いない。




●忌部・斎部氏 いんべ・いみべと物部影姫
蘇我氏の品部、のちに中臣・藤原に寝返って祭祀・記紀神話現地採集の中心に。

玉造集団の管理者

猿田彦の妻アメノウズメ=猿女君の祖、は忌部祖神・天太玉命の娘だとさ。『日本書紀』ではアマテラスの岩戸の前でストリップした踊るシャーマン。
忌、斎、どちらも祭祀部であることを名前にしている。

忌みごととか、呪文というのは、往古は吉凶どちらにも使われた言葉。そのどちらかを占うのが忌部やシャーマンである。

ちなみに、忌部氏の「いんべ」地名は吉備にも出雲にもあり、筑紫物部氏として九州に入っていた荒鹿火(あらかい・筑紫物部氏開祖、守屋の息子)の娘・影姫を天皇と取り合った話も『日本書紀』に残されている。この「かげひめ」が、武内宿禰の妻となった肥前基肄郡の山下影姫に反映されたのかどうかは明白ではない。忌部と紀氏の同族関係は、国東の岐部のいる場所が伊美岩倉であるところから推察可能。忌部氏はもともと蘇我氏の配下にあって、玉造集団を支配下に置く玉の祭祀を執り行う一族だった。ゆえに玉の素材として出雲や古志を重視し、出雲神話の題材を不比等に提供するようになった寝返りシャーマンであろうと大山が書いている(祖神が天太玉命)。玉造地名は大坂や出雲や東国のさきたまにあり、忌部氏の力が及んだところだろう。しかし政治では三種の神器には入れてもらえたが実際には玉はさほど重視されていない。それはやはり忌部が寝返り氏族で、藤原氏にはいまひとつ受けが悪かった?せいかも知れない。

■ 伊部(いんべ): 岡山県備前市伊部
■ 出雲忌部
朝廷の品部としての「忌部」は、出雲・紀伊・阿波・讃岐が代表的なものとして明らかとなっている[2][1]。『古語拾遺』では、天太玉命に従った5柱の神を「忌部五部神」として、各忌部の祖としている。 職掌:玉の貢納
島根県忌部神社  忌部子首が不比等によって出雲に送り込まれた記録あり。『日本書紀』神話の元ネタを持って還った氏族のひとつが忌部氏である。
■紀伊忌部
地域:紀伊国名草郡御木郷・麁香郷 『古語拾遺』では「御木」は木を採る忌部、「麁香」[注 2]は殿を造る忌部がいたことによるとする。『和名類聚抄』では、紀伊国名草郡に忌部郷と神戸郷(忌部神戸か)が見え、和歌山県和歌山市鳴神の鳴神社付近に比定される[4]。
■阿波忌部
地域:阿波国麻植郡忌部郷
職業 麻、大麻(ちょま、護摩壇で燃やす)の栽培と献上
■讃岐忌部 楯の貢納
「また『古語拾遺』には筑紫・伊勢に天目一箇命(あめのまひとつのみこと:忌部五部神)を祖とする忌部があったと記し、この神に刀・斧・鉄鐸・鏡などを作らせたという記述がある。 このことから、鍛冶として刀・斧を貢納した忌部がいたものと推測されている[2]。そのほか、備前・越前にも忌部が分布したと見られている。」 以上Wiki忌部氏より

そもそも祭神がばらばらで、各地でいろいろな献上品を作っているのが部の民であった証拠。
その中から中央進出して氏族になったものがある。これは部がつく人々の常。臣や直などの「かばね」が持てたのはごく一部の支配階級(えらいさん=網元、豪農、庄屋、鉱山主)だけ。すると土師部(墓・土木・埴輪専門職人)から右大臣までいった菅原道真とかシャーマン・食事係り阿部一族から皇室専属の陰陽師になった安倍晴明たちの類稀な勉強と努力がわかるはず。

いずれにせよ藤原不比等が忌部を出雲に送り込み、さらに出雲国造も送り込んだ。それが『日本書紀』出雲神話としてできあがるわけだが、実際の国譲りの現場は蘇我氏のいる飛鳥でのことだったわけである。出雲では何事も起こっていない。では、あの神庭荒神谷のおびただしい銅剣や、岩倉の銅鐸たちはいったい?推察でしかないが、蘇我氏を出雲大社へオオナムチとして流したのちか、以前、出雲には渡来人の来襲があって、それが鉄剣を持っていてかなわなかった。それで鉄に早くに目覚めた出雲では、足元にいくらでもあった砂鉄に気がつく。このカルチャーショックによって銅の文化が古いと知った出雲人民は、古い銅製品をステータス・神さまのヨリシロにしてきたことを恥じて、埋めた・・・。あるいは藤原氏がタケミカヅチとフツヌシを常陸から持ってきて、国譲りのスターにしたことが、鉄剣=大和支配であり、銅剣・銅鐸=古い地元祭祀で記紀神話にあてはまらないからと、遺棄させた。象徴として神と古墳も一転した?いろいろ考え付くが結論は出ない。

しかし大和の飛鳥蘇我王権では、まさに、「どうして現場に血が流れるんだ!」なのである。よくも造ったもんだ。うそでもそれは天才的である。不比等は物語作家として偉大である。入鹿の首は飛んでいなかったかも知れない。飛んでいたら飛鳥は「飛ぶ首の明日香」とかかれただろうが。