日本には太平洋とか大西洋とか日本海とか瀬戸内海といった、おおきく海をくくった言葉・地名は明治時代までなかった。それらはすべて西洋地理学が名づけている。

瀬戸内海に名前はなかった。日本では海は、自前の海=灘としか言っていない。●●灘は狭い範囲で、陸から見渡せる程度である。そういう灘の集まりであり、ばらばらである。近隣が寄ってきてすべての海域をナンと呼ぶかの必要がなかったということなのだ。つまりそれは過去の日本人の越境しない性格、生き方そのもを表していることになろう。それは地形が複雑で容易に隣近所の国々とつきあえないからだ。だから方言が山ほどある。


幕末来訪した西欧地理学者たちは、瀬戸内を内陸海と言い始めていた。明治になって政府が対抗してオリジナルな「瀬戸内海」を決めた。それまで瀬戸内海には名前がない。

外海とか内海とは言ったかもしれない。それはすべての海に対しての漁師たちの考え方だ。瀬戸内では瀬戸内海は「せと」の集まりである。瀬戸とは狭い戸である。戸とは海峡である。瀬戸内海は島々が山ほどあって、狭い海峡だらけである。そこを海流が通り抜ける。だから非常に航海が難しい。

一口に海流と言ったが、海流は黒潮の流れなので、瀬戸内では潮流というのが正しい。瀬戸内海では海水はほとんど流れ出る、流れ込むの現象がない。回流しない海で、わずかに四ヶ所の出入り口しかない。関門海峡、豊後水道、鳴門海峡、紀伊水道である。すべて狭い。狭いから潮流はすごく早くなり、無理に通ろうとして渦潮が起こるのである。(神武天皇が豊後水道=早吸瀬戸を越えて宇佐に入れたはずはないんだよ)


だから瀬戸内海は出るのも入るのも古代には難所だった。しかも途中の島々の間や、陸地と島の間を急流が抜けていく。

それだけでない。


●潮流はなぜ起こるか?
潮の満ち干は月と太陽の引力が引き起こす。風も影響する。
太陽よりも月のほうが近いから引力は大きい。
月が地球の裏側にあるときは太陽が影響する。

大潮は新月と満月のときに起こるが、間の上弦・下弦のときには小潮になる。このときの潮の干満が潮流を動かすのだ。しかも地球の標準の潮流時間と、日本の時間ではだいたい6時間の時間差があるし、そこから動き始めると、満潮が干潮になるまでにはまた何時間もかかる。ゆっくりと動くのである。するとそれが島の間の流れを激しくしたり、横風によってそれが左右にぶれたりが起こってしまう。

だから瀬戸内航行は今でも難しい。カヤックの選手が、とにかく瀬戸内は怖いと言う。乗って櫂をたぐっていると、カヤックの左右の潮の流れが違う気になるそうだ。実際、そうなのだろう。右は東へ向っているのに、左は西へ向っているとしたら、とても船は漕ぎ難いだろう。へたをするとくるくると回転し、あげくに渦潮に呑まれるかもしれない。


海賊や海人族は、そういう難所を勘と経験でたやすく行き来した。だからいくさや貿易で彼らははずせない。長く貴族も武士も、彼らに海だけは頼らないわけにはいかなかった。そして民間の舟も行政の舟も彼らに、セトを通る通行料を支払うしかなかった。往古は船にはかならず武器を携帯した。いつ海賊にぼられて争いになるか知れないのだ。戦国時代は鉄砲持参である。海賊は常は海賊だが、いくさになったら彼らは貴重な戦力であり、水先案内。だから無碍に滅ぼせなかった。やっかいである。

セトを瀬戸と呼んでいたのは彼ら海人族である。それで明治政府も瀬戸内、瀬戸内海としたのである。


瀬戸の花嫁のような、のんびりした瀬戸内風景は、単に海を横へ動くケースだけである。横断したり、海峡を渡る風景ではないのである。



そしてそのことこそは、朝廷が近畿にできてゆく要因だった。瀬戸内海という怖い海があったおかげで、近畿には外敵がやってこれなかったのだ。奈良盆地が筑紫平野よりも稲作に適した平地が多かったから移住したなんて昔は平気で教科書に書いてあったが、そんなバカなことはない。平地なら北部九州のほうが奈良盆地などよりよほど広い。あれは九州が三国志時代の戦乱の大陸に近すぎたことと、近畿が瀬戸内海の奥にあった要所だったからなのである。要するに、戦争が嫌でたまらないから彼らは逃げ込んだのである。弱虫なのだ。もちろんある見方ではそれだけ賢かったとも言えるだろう。じゃあ、九州に残った人々は勇敢だがおつむが弱いのか?そうではない。九州は大陸とのつきあいも古く、心が知れた中国や朝鮮を畏れずに過ごせたのだ。だから九州の土器は纒向で少ないではないか。いくさを畏れる必要がない。それどこ0ろか諸外国とつきあうことの利益は膨大だったのである。

どっちかおばかなのか、ようく考えてから歴史は見てちょうだい。

・・・まあ、結果として大坂のほうが流通の要所としてはふさわしかったんだけどね。ちぇっ。