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地名しが、しかは安曇族と「鹿の海渡り」に深い関わりがある地名である。


●志賀島 しかのしま  福岡県
「志賀島(しかのしま)には江戸時代までたくさんの鹿がおり、黒田藩の狩猟場になっていたようです。志賀海神社には鹿の角がたくさん奉納されています。なんでも戦前まで数匹はいたそうです。

そこでピーンときましたか? ・・・・鹿がたくさんいたので・・・・「しかの島」
 実は私もそう思ったのです。が、しかし、残念でした!
そうではなく昔は近い島の意味で「ちかじま」と言っていたそうで、それが現在の志賀島の語源になっているらしいのです。」
http://www.yado.co.jp/sima/sikanosima/sikanosima.htm



日本書紀や古事記に綿津見神の祭主・阿曇氏、安曇族についての記述が見られる。
安曇族は海人族だが、海を渡る鹿を自分たちのステータスにしていたのかも知れない。

しかし上記の「近い島」から「ちかのしま」が「しかのしま」となるというのも、かなり目からうろこであろう。確かに志賀島は陸地と近い。


●志賀・滋賀
文字はあとづけであるので関係ない。音の意味である。

「昨日の京都新聞(滋賀版)に信楽の地名の由来が載っておりました。
 (中略)
信楽はもともと州処牧(シカマキ)で、 州処(シカ)が滋賀の語源で、 牧は古代の農林物産の供給地のことをいうらしいです。 現在も信楽の大戸川下流に牧という地名があります。
これに対し、上流のスカ(砂州)をスカマキと呼び時代を経て音韻変化した地名がシガマキとなり、さらに聖武天皇が都を築かれることになり、

 新しい都(アラ新+キ処)と定め、

シカアラキと呼ばれるようになったのがシガラキの語源との事です。
 要するに
 シカマキ
  ↓
スカマキ
  ↓
シガマキ
  ↓
シカアラキ
  ↓
シガラキ
 と変化したようです。
また、万葉仮名で信楽の事を紫香楽と書きますが、
 「紫雲たなびく香ぐわしい楽土」で
 ものすごく美しい地を想像させますね。
そして現在の信楽は、
 仏典に一心に帰依する意のシンギョウ(信楽)を当てた字らしいです。
 地名の由来を知って、あらためてここに都が建造されていたんだなあと実感しました。」
https://soutouen.exblog.jp/10165766/



1.滋賀県という県名の由来と「滋賀」の字の使用について
『角川日本地名大辞典 25』によりますと、「〔県名の由来〕滋賀郡の滋賀からきており、さざなみの志賀に通じるところから採用されたと思われるが、確実な史料はない。」とあります。また、『志賀町史 第1巻』によりますと、「「滋賀郡」の表記は、古代以来行政上の用例として主流であったものをうけついでいるのであり、それが県名にもなったのは、明治維新期の動きのなかで、明治五年(一八七三)一月、前年に諸藩が合併して成立していた大津県の役所、滋賀郡大津町にあったことから、滋賀県と改称したことに始まる。」とあります。なお、文中の「明治五年(一八七三)一月」は「明治五年(一八七二)一月」の誤植です。

2.「志賀」もしくは「滋賀」の字の意味について
『志賀町史 第1巻』によりますと、「「しが」または「しか」という郡名は、元来「音」で伝承された小地名ないし地域名であったと考えられ、漢字は中国文化の導入以後に、通音によって適宜あてたものであるから、さまざまな用例がある。『万葉集』は文学作品であるためもあろうが、「しが」の地名表記はより多彩で、「志賀」「志我」をはじめとして、「之加」「之賀」「思賀」「思香」「思我」「四可」「四賀」「然」など千差万別である。『万葉集』に「滋賀」の用例が見られず、六国史(りっこくし)などの正史上でも平安時代になって使用が安定する傾向が読み取れることから判断して、むしろ「滋賀」が用いられるのは新しい部類に属するようである。」とあります。一方『市町村名語源辞典』によりますと、「しが〔滋賀〕(中略)シ(石)・カ(接尾語)で「石の多い所」のことか。スカ(砂州)の転とも考えられる。」とあり、『日本地名大事典 上』には、「しが〔滋賀〕(中略)「スカ(洲処)」の転訛説は、他の「シガ」地名からして、あり得ない。「シカ(石処)」の意で、石や岩の多い所をいう。(後略)」とあります。なお、『京都滋賀古代地名を歩く [1]』によりますと、志賀あるいは志賀津などの「シ」は「日本語では古い代名詞のシ(其)で、「それ」と指し示す代名詞である。「それ、そこの何々」という意味である。(中略)それでは下のガは何か。場所のカ(処)であろうか。」とあります。
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000092351



 「一般に、東北地方の一部などの例外を除いて、律令時代から明治初期まで、郡はほとんど変動していません。 明治中期から大正期にかけて全国的にはかなり派手な郡の改廃離合があったのですが、滋賀県では大きな変動はありませんでした。
 
 但し、「市」になった部分は郡から除外されるため、滋賀郡と栗太郡は早い段階(戦後すぐ)から郡域が大きく減少していました。 具体的には、滋賀郡というのは、昭和大合併初期の1951年以降は仰木以北、1967年に堅田町が大津市に編入されてから平成大合併までは志賀町のみということになりました(2006年に志賀町が大津市に編入されて、滋賀郡は自然消滅)。 そのため、滋賀郡は「大津市の北の方」にある郡というイメージがあるかもしれませんが、実際には大津市の大部分(宇治川以東南の瀬田・大石・田上・上田上を除く地域)は、本来は滋賀郡に属します。 むしろ大津市の中心部こそが滋賀郡の中心なのです。
 
 では、滋賀郡の「滋賀」とはどういう地名なのでしょうか? 「市町村名語源辞典」(溝手理太郎/東京堂出版1992)には

シ(石)カ(接尾語)で「石の多い所」のことか。スカ(砂州)の転とも考えられる。
 
とありますが、仮説の域を出ないようです。

 「シガ」は「あっちがわ」という意味で、逢坂山を越えた向こうという意味があるという説も聞き及びますが、手元の資料にはありませんでした。


「滋賀」なのか「志賀」なのか
 最初に確認しておきたいのですが、固有名詞への漢字の当て方を厳格かつ固定的に考えるようになったのは、明治以降のことです。 例えば「三河」と「参河」などはどちらでも良かったようですし、苗字(姓)に関しては、同じ一族の中で格付けなどによって違う漢字を用いるなんていう芸当をしていたケースもあるようです。

 そういうわけで、「滋賀」でも「志賀」でもどちらでも良いというのが本来の形なのでしょうが、律令以来「滋賀」が公式の表記ということになっているようで、「志賀」は古称あるいは雅称として扱われてきたようです。

 ちなみに、「新編日本史辞典」(東京創元社1990)の付表には、律令以前の表記として「滋賀」「志賀」の他に「志何」「斯我」が挙げられています。


町村名としての「滋賀」「志賀」 
大津市の北に隣接して「志賀町」が平成大合併(2006年)まで存在しました。 「滋賀県滋賀郡志賀町」なので「何で最後だけ字が違うんだ」という声もあったのですが、多分「滋賀」を名乗るのは僭越だと思ったのではないでしょうか?

 尤も、志賀町が合併で成立する前に広域行政組合(複数の市町村が行政の仕事の一部を共同で行うために作る組織で、法律上は都道府県や市町村と同様に「地方公共団体」の一種)が作った中学校の名前も「志賀」だったようなので、直接的にはこれが由来なのかもしれません。 但し、中学校の名前を決めるときに同じような話があったでしょうね。

 合併して新しい市町村を作る際に、命名に困った揚げ句、 新市町村の範囲を大幅に越える広域地名をつけてしまったと思われる例は多いのですが、「志賀町」については、字を変えるだけ良心的だとも言えるでしょう。

 なお、湖西線に「志賀」という駅がありますが、これは志賀町の中心地という意味で後からつけた駅名です。 江若鉄道時代には、所在地の大字名を取って「近江木戸」駅でした。

 一方、明治22(1889)年から昭和7(1932)年まで「滋賀郡滋賀村」が存在(大津市に編入されて消滅)しました。 これは、合併前の6村の中に「南滋賀村」と「滋賀里村」があったということも影響していると思われます。 このあたりは、古代の大津宮の所在地に近いなど「滋賀」という地名の発祥の地とも考えられる地域なので、それほどの僭称とも言えないでしょう。 (「南滋賀」も「滋賀里」も京阪電鉄の駅名として残っていますし、付近には江若鉄道の「滋賀」駅もありました)
http://nanyanen.jp/ohmi/shiga.html


「志賀(しが、しか)とは、日本の苗字、地名である。古くは「滋賀」は「志賀」とも表記された。苗字としては東日本に多く、特に福島県に集中している。いわき市周辺に多い。西日本では大分県に多めに分布する。

古代には近江国志賀郡(現滋賀県大津市)発祥の豪族、志賀氏が存在した。後漢の献帝の末裔とされる渡来人系の一族。

豊後国には豊後国大野郡大野荘志賀村(現大分県豊後大野市)の武家、志賀氏が存在した。藤原北家の一族とされる。薩摩志賀氏も同系と伝えられる。

仙台藩医に志賀氏が存在した。陸奥国江刺郡大町氏の家臣だったとされる。細菌学者の志賀潔はこの末裔とされる。信濃国佐久郡志賀郷(現長野県佐久市)発祥の武家、志賀氏は藤原北家の一族とされる。

また、鹽竈神社の神官に志賀氏があった。」
https://dic.nicovideo.jp/a/%E5%BF%97%E8%B3%80




諸説あるようだ。
しかし忘れていることがないか?
滋賀県はもと近江国である。
読み方は「おうみ」で淡海とも書く。
近江は奈良から近い海という意味だが、淡海は淡水の海という意味表記である。
近江が古い。
ちなみに遠い海は静岡県の「とおとうみ」で駿河湾である。

近い海という意味は、福岡の志賀島の「近い島」と同じ使用法になる。だから本来の「しが」「しか」は「ちか」だったと考えられる。

しかし、滋賀県琵琶湖の西部には安曇川があって、安曇族がいたと考えられている。安曇族が鹿をステータスにしていたとするなら、記紀にも、鹿の海渡りが出てくる。海を渡る鹿を、海を越えて移動した海人族のステータスとすると、「しか」こそが由来?

福岡の高良大社は武内宿禰を祭る筑後一の宮だが、ここの神社社殿には鹿の角を持った竜?がいる。そして鹿が玄界灘を渡った伝説もあり、まさに安曇族は玄界灘の海人族である。

この二説を強く押したい。



紫香楽(信楽)は上にもあるように、聖武天皇が宮を建てようとしたから「しがのき」というのがよいように、一見見える。しかしあえて別の異説を唱えるなら、「しらき」は新羅地名で、「新羅の人が来た」で「しらぎき」。言いにくくなって「しがらき」。

いかが?






付録
過去記事から
長野県のO氏が調べてくれた全国「しが」地名全地名。

志賀:
・宮城県岩沼市志賀
・秋田県鹿角市八幡平(字下モ和志賀)
・埼玉県嵐山町(比企郡)志賀
・長野県佐久市志賀
・滋賀県大津市南志賀
・奈良県吉野町(吉野郡)志賀
・和歌山県かつらぎ町(伊都郡)志賀
・和歌山県日高町(日高郡)志賀
・長崎県対馬市豊玉町佐志賀
・大分県豊後大野市朝地町志賀
・大分県豊後大野市緒方町志賀

四賀:
・長野県諏訪市四賀

しか:
・青森県五所川原市沖飯詰(字男鹿)
・岩手県岩泉町(下閉伊郡)門(字湯沢鹿)
・岩手県岩泉町(下閉伊郡)袰野(字赤鹿)
・岩手県九戸村(九戸郡)江刺家
・岩手県一戸町(二戸郡)姉帯(字野馬鹿)
・秋田県鹿角市八幡平(字下モ和志賀)
・秋田県三種町(山本郡)大口(字中鹿)
・福島県福島市飯坂町湯野(字四箇)
・福島県田村市船引町門鹿
・福島県田村市都路町古道(字九郎鹿)
・千葉県栄町(印旛郡)四箇
・茨城県稲敷市四箇
・茨城県小美玉市栗又四ケ
・栃木県二宮町(芳賀郡)鹿
・群馬県みどり市笠懸町鹿
・新潟県妙高市大鹿
・石川県七尾市中島町笠師カ
・石川県津幡町(河北郡)竹橋カ
・愛知県岡崎市東大友町(字足鹿)
・愛知県一宮市南小渕(字虫鹿)
・愛知県豊根村(北設楽郡)古真立(字田鹿)
・愛知県音羽町(宝飯郡)長沢(字ハシカ)
・静岡県静岡市駿河区小鹿
・静岡県島田市佐夜鹿
・静岡県掛川市佐夜鹿
・三重県志摩市志摩町越賀
・滋賀県米原市大鹿
・奈良県東吉野村(吉野郡)鷲家
・鳥取県三朝町(東伯郡)西小鹿
・鳥取県三朝町(東伯郡)東小鹿
・島根県斐川町(簸川郡)原鹿
・山口県下関市菊川町大字吉賀
・山口県岩国市二鹿
・福岡県福岡市早良区四箇
・福岡県大牟田市四ケ
・佐賀県唐津市肥前町星賀
・長崎県対馬市上対馬町小鹿
・長崎県対馬市豊玉町佐志賀
・熊本県あさぎり町(球磨郡)免田東(久鹿)
・宮崎県都城市高城町四家




全国に「しが・しか」はあって、ほぼ海人族か鹿地名だろうと申しておく。
滋賀はシカ牧のあったところでもある。









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