いさら井
 (いさらい)
京都市右京区太秦蜂岡町
 (市バス:太秦開町 嵐電線:太秦広隆寺駅)
 「【日猶同祖論】という摩訶不思議な説が存在する。かいつまんで言うと、日本人とユダヤ人とは祖先が同じである、日本人の祖先は“消えたイスラエル十部族”の末裔である、という気宇壮大な思想である。

  渡来人の秦氏の本拠地であった太秦(ウズマサ)の地も、実は【日猶同祖論】の有力な証拠が点在する場所として知られている。提唱者は景教(ネストリウス派キリスト教)研究の世界的権威である佐伯好郎。彼は、古文書の記載から秦氏の祖先が古代キリスト教を信仰していたユダヤ系の民族であるとし、その名残が太秦の地に残っているとしたのである。

  その重大な証拠の一つが【いさら井】と呼ばれる井戸の名前なのである。秦氏が建立した広隆寺の西側、現在はちょうど観光客用の駐車場になっている場所の脇にある細い道を入っていくと、この井戸がある。今はもう使われなくなっているが、隠れた史蹟として残されているようである。
  佐伯博士によると“いさら井”は“イスラエル”がなまったものという。なるほどと思わせる説なのだが、ところが“いさら”という言葉がちゃんと存在しているのである。“いさら”とは“少ない”という古語であり<“いささか”と同じ語源>、“いさら井”とは“水の量が少ない井戸”という意味なのである (『広辞苑』にも記載されてます)。夢とロマンをとるか、現実路線をとるか、微妙なところである。

<用語解説>
 日猶同祖論
 最初に唱えたのが、幕末の日本へやって来たイギリス人のマクレオドであるが、彼は、日本の神道の中に日本人がイスラエルの民の末裔である証拠を発見した(神社建築の類似性・八咫鏡に刻まれた文字など)。その後、日本人学者によってさまざまな“ユダヤとの接点”が発見された訳である。例えば青森県戸来村にある【キリストの墓】や石川県押水町にある【モーゼの墓】、更には安倍晴明の【五芒星】までかなりの数にのぼる。

 消えたイスラエル十部族
ダビデ・ソロモン王の時代に栄華を極めた王国が南北に分裂、イスラエル十二部族のうちの十部族が北にイスラエル王国を興す。そしてBC722年にイスラエル王国はアッシリア帝国によって滅ぼされるが、その後この十部族は歴史上完全に姿を消す。この史実が謎を生むことになる。

 景教
 古代キリスト教の一派であるネストリウス派キリスト教の中国での呼び名。431年に宗教会議において異端とされた後、東へ伝播して中国では唐の時代に伝えられた。しかし佐伯好郎によると、渡来人である秦氏によって日本に伝えられた形跡があるとされる。

 佐伯好郎
1871-1965。言語学者。景教研究で国際的な名声を得る。日猶同祖論を展開、特に秦氏の本拠地である太秦にその痕跡を求めた(ただしこの説はアカデミズムの世界では無視されている)。

<関連伝承地>
 大酒神社(京都府)

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ことバンクにはいさら井はそれこそ水のようにさらりとこう解説してある。
「水の少ない井。ちょっとした湧き水や、水の流れ。
「亡き人の影だに見えずつれなくて心をやれる―の水」〈源・藤裏葉〉 」
https://kotobank.jp/word/%E3%81%84%E3%81%95%E3%82%89%E4%BA%95-431858

いざ秦氏はイスラエルの消えた十二支族か!!と意気込むとんでも研究家には、まことに肩透かしの解説である。思わずぷっと噴出しそうになる。

いさら井は、
「 広隆寺駐車場の西に接する小道を北へ約50メートル上った右手にある(右京区太秦西蜂岡町)。四角い井戸で覆屋があり、石組みに「いさら井」と彫ってある。以前は「井浚」と彫られていたようだ(『京都民俗志』)。竹の簀子で蓋をして井戸枠に括りつけているので、井戸の中は窺い知れない。洛西有数の古井で、伊佐羅井(『山州名跡志』、『都名所図会』、『都花月名所』)、伊佐良井(『扶桑京華志』)とも書いた。和泉式部の有名な歌が残る。「いさらいのふかくの事はしらねども清水ぞ宿の主なりける」」

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古語「いさら」
「[接頭]水に関係あることを表す名詞に付いて、小さい、細い、少ない、という意を表す。「いさら波」「いさら水」」
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/11004/meaning/m0u/

なんのこともない、いさらは古語だ。大和言葉である。
「さら」は思うに、春の小川はさらさらゆくよ・・・の「さらさら」語源で、小さな川(ブルック)の流れる音から小さいという意味になった。「い」は強調の接頭語である。聖地であることを示す。往古から水涌くところは聖地である。水は命を支えてきた。だから広隆寺そばのいさら井も、太秦に住む人々の聖地であったことは間違いなかろう。

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広隆寺のある土地が今も蜂岡町であるほうが実は大事だ。
「はちおか」は『日本書紀』には聖徳太子の命名とある。
それは嵯峨野一帯にカエデ林があった・・・というよりも京都にはカエデがいくらでも生えていた。今ではその一部が長岡京市に「かいで公園」となっている。地名も「鶏冠井 かいで」である。https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/57816356.html

そもそも聖徳太子が山背の嵯峨野までやってきて、秦河勝と仲良く蜂岡寺にふさわしい場所を見つけ、楓を植える必要もないほど、京都はもみじだらけの荒地だったのである。もみじがあったからそこに砂糖の液を求める蜂がぶんぶんしたのだ。だから蜂岡である。

蜂という地名はご存知の通り鉱山地名で、弘法大師も高野山設立の資金になる水銀を探した場所に蜂、鉢地名が残された。というのも楓、もみじは銅鉱床を好むからとも言われ、かえで自生地には鉱床が多かった。水銀があれば必ず中に金もある。水銀は金だけは溶かさず包み込む性質がある。

それだから秦氏も楓が多かった嵯峨野=葛野を近畿の居住地に定めたに違いない。稲荷の秦大津父も伊勢に水銀や金を求めたが、なんてことはない、そぐそばに鉱脈はあったのだ。

いさら井もだから当然ミネラルあふれる名水だろう。鉱脈があればミネラル水が生まれる。六甲山しかり。その鉱脈はもともとそこが海から隆起した証拠でもある。海がミネラルであふれている理由は、地球の核が鉄その他でできているからである。地球も最初はただの隕石である。その核の中の鉱物成分は、ホットプルームとなって上昇し、噴火する溶岩に含まれている。それが海や川へ流れ出し沈殿すると海中鉱床になり、やがてプレートテクトニクスで隆起する。だから鉱脈の多くは平地より山の中腹に多い。

すべてはそういう理屈あってできあがる。
いさら井がそこにあるのもそういう因果からで、イスラエルなんかまるで関係ない。

ところで広隆寺は何度も移転したが、広隆寺の伝承では、その引越しのつど牛祭が道を遡上したらしい。牛に乗っかっているのは摩多羅神である。摩多羅神とは混血児である。インドのマハーカーラと日本の荒神の合体したもの。それは災害神でたたり神だった。うしろ戸とかうらどの神とも言う。仏像のうしろにあって、ヒトの生き血やはらわたを食うと言う。

秦氏も混血児である。日本の仏教の習合と同じ存在なのだ。キメラである。そもそも神仏習合がもともとインドにあったことを空海も秦氏も知っていた。民衆にはそうしないとなかなか外国の宗教は受け入れられない。

それはキリスト教も同じだった。長崎の話題の島である五島や天草にいけば、キリシタンバテレンが日本の仏教を取り込んで身分が低い被差別の海民たちに布教していることがわかるだろう。海の民は海運に利用されたが、在地では必要がなければ差別されていた。板子一枚下は地獄という海の上でかせぐ特殊技能者だから鬼だった。それで仕事がないからしかたがなく海峡通行料を取り始めたのが海賊である。そういう事情、因果関係がある。

それは渡来人も同じこと。ちゃんと日本語も話せないので、差別された。為政者はまだいい。しかし部民・技術者は3K仕事しかない。で鉱山で危険な掘削・・・。あなた、はだしで山から鉄を切り出せますか?靴もなくつるはしもない時代ですよ?もう手足傷だらけでしょう。全員が瀕死の状態です。それで鉱山師ってのは片足の妖怪扱いだ。

そういうヘイトのはじまりを造ったのは孔子さんの官僚至上主義ですよ。うらむなら孔子、論語をうらみなさい。そして往古の彼らのように広大なる神仙思想と道教に学びなさいな。

日本で修験道が発達したのも、同じ事情だ。はじまりが葛城役の行者であるというのは、葛城氏が五王にやられたからです。差別されたから葛城山麓に引きこもり、山野徘徊して神仙道にまい進するか、地味に柿木育ててお茶や渋皮染めやらにいそしんだ。だから御所市では北一輝みたいな極右の開祖が生まれるんでしょう?国家を敵としてゆくんだ。だから役の行者も怖いし、同じ葛城の山伏だった楠正成が出るし、葛城一言主だって土蜘蛛扱いでしょう?

差別された敗北者はみんな怨霊とか、修験者とか忍者になるしかなかった。妖怪扱いですよ。わかる?それが何世代もそのまんまだったんですよ?

広隆寺は真言寺院だが、もともとは日本に宗派なんかない。最初は南都仏教である。やがて天台と真言に分かれたが、そもそも同じ遣唐使の起こした中国仏教である。それでかどうかは知らぬが、仏教とはいいつつ、奈良時代までの仏教寺院はなんでもありだったようだ。

次回は蛇塚古墳は前方後円墳