あいだに北大阪地震があり、
久しぶりの京都ディープ。晴明再登場です。
おまたせしました。

その1の続きです。



★京都ディープ 4 
安倍晴明、正しい墓所と正しい晴明神社のありかを探す2



★なぜ晴明坐像はそこに?
新京極の浄土宗深草派誓願寺(せいがんじ)の塔頭(たっちゅう、大寺・名刹に寄り添って建てた塔、小寺院の中で中心的役割を持つもの)に真如山長仙院(ちょうせいいん)がある。先に写真を貼った安倍晴明坐像ほか三座は今、この長仙院に鎮座している。
場所は誓願寺の東、京都ロフトの裏である。





現在の住職・吉良潤氏の父親の代に、この三座は北御門院長棟堂清圓寺(せいえんじ)を引き取ったときに、くっついてやってきたと言う(吉良潤氏談・西川照子)。そもそもは長仙院本尊本堂が消失?し、困っているところに、長棟堂にあった阿弥陀三尊像が、寺院経営かなにかでいきづまったとき、行き場が無くなり路頭に迷ったことを聞いてのことだったそうだ。それにくっつくように三座も持ち込まれ、場所に困ってしかたなく父住職が、たまたま開いていた施餓鬼台に安置。そのまま現在に至っている。施餓鬼をしないお寺になぜ施餓鬼台があったかは定かでない。


手前左が晴明、右が蝉丸、奥は妙法寺教円のそれぞれ木製坐像
下は若狭納田終(のたおい)の葛の葉キツネと五芒星。




★施餓鬼
施餓鬼とは「餓鬼道で苦しむ衆生に食事を施して供養することで、またそのような法会を指す。特定の先祖への供養ではなく、広く一切の諸精霊に対して修される。 施餓鬼は特定の月日に行う行事ではなく、僧院では毎日修されることもある。」(Wiki施餓鬼)。

どうもなにか因縁があったらしいが、とにかく晴明座像は今、ここにある。


★妙法院教円は両性具備?!
※妙法院教円は二人いる。男の教円と、転男教円という性転換した両性具備の教円である。どちらかはわからないが、男性の教円は天台座主で、妙法院とは関係が見られない。もうひとりのほうも素性は不明である。



★妙法院は摩多羅神秘術のあった寺
さて、後者のほうが神秘性がありそうな?
妙法院は摩多羅神(またらじん)を祭っていたことがわかっている。摩多羅神は秦氏の大酒神社の秘伝の神で、秦氏が祭ってきた治水神である秦河勝の別の姿とされる。そしてその本性はインドの破壊神マハーカーラであろうという。ならば律宗尼であった教円でよいか?晴明も平安京の治水王なのだから。そもそも晴明は河勝のイメージを相当量しょわされている。だからこそ現在の晴明神社も嵯峨野の手前に置かれたのではないか?そこは御所から見た北西。神道の鬼門、愛宕山の方向である。



★晴明坐像の謎
しかしそれにしても、なぜ清圓寺を引き取ったとき、晴明坐像までついてくるのだろう?

前回書いたように、宝井其角『花洛名所図会』には宮川町の清圓寺(せいえんじ)のそばに晴明社(塚)はあって、宮川町に新道を造るのにその土地を平坦にしたので、道観親王がそのおりに晴明大明神として晴明塚を建てたとある。だから清圓寺とは晴明が最初に五条中島中州に建てた法城寺の跡地にあとから建立され、その場所のえにしを知っていた蝉丸は晴明塚を造った。ならば東にできた清圓寺は法城寺を引き受けていたのだとしか考えられず、だから晴明と蝉丸坐像もそこにあったのだろう。その後、また鴨川が氾濫して、清圓寺全体が真如山長仙院に移動・・・。

かなりややこしい事情が見えてくる。




★変貌に変貌した京都の歴史
なにしろよくわかったのは、京都という街が、代々、いかに変容する街だったかである。地形が自然現象で変化するので、しかたがないのが昔の日本なのだ。もちろん戦火もあるだろうし、経済的理由もあろうが、人的理由よりも秀吉時代の河川の氾濫がいかにひどくて頻繁だったかがわかるというものであろう。

しかし、坐像は坐像であり墓ではない。少なくとも五条にあった晴明塚くらいは一緒に来ていてもおかしくはなかろうが、住職は墓や塚はご存じないそうだ。晴明の墓所だけは、嵯峨野天龍寺が先に引き取っていたのでこれはしょうがない。だが天龍寺はあまりに五条大橋から遠いから、もしかすると別の晴明塚だったかも知れぬ。蝉丸が造った五条中島清圓寺横の晴明塚はどうなったか実は定かでない。というよりも全国あちこちにそれが分家?して、それぞれの塚になったのかも知れない。そうなると本家本元の塚は、氾濫で流されたのだと言うしかなくなる。それで天龍寺が新しく塚を造って、そこをついでに墓所にしたか?




つまり安倍晴明の墓は、もうどこにあるのかはわからないということなのだろうか?




★地震と氾濫に翻弄された京都
秀吉の時代には、京都は二度の大地震にやられ、河川の氾濫も多かった。五条河原の中洲に存在した寺も塚も、きっと消えたってしょうがに時代だ。しかし、晴明を愛する人たちは、あちこちに墓所や塚を造って行ったに違いない。それほど晴明は広い階層に愛された。



★阿倍野と信太山と舞村と聖(ひじり)神社
大阪泉州にもう一度行ってみよう。晴明の母親である葛の葉を祭った和泉市信太山である。ここに聖(ひじり)神社がある。地名は「和泉市舞町」である。旧舞村の北方に鳳郡野代村(現堺市西区鳳西町)があって、長享二年(1488年)には、ここに多くのひじり=陰陽師がいたと言う。説教節「信太妻」は彼らによって語り始められたと言う。陰陽師やシャーマンには物語を、術と術のあいまに語る=語り部としての役割があったと聞く。



恋しくば たずねきてみよ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉


★「信太妻」誕生と陰陽師村と秦氏
浄瑠璃になり、歌舞伎になり、落語にもなった、あまりに有名なおはなし。
「恋や恋なすな恋」という芸能分類される譚。民俗学では「異類婚姻譚」とされる。
「けいせい信太妻」あらすじhttps://blog.goo.ne.jp/wata8tayu/e/d9cdce73ff6587b4b7f1786f17af1a53

泣ける話NO.1で人気がいまだにある。
特に女性は大好きだろう。

晴明の父親・安倍保明が助けた狐を妻として生まれたのが晴明。ところが10歳にならぬときに、晴明は母の正体を見てしまう。母・葛の葉は悲しいけれど動物界の掟で、家を去った。親子は信太の森へ母親を探しに行く。ようやく会えたが、母親はかたくな。泣いてすがるわが子にほだされ、天地日月の宝箱と玉を形見に渡す。それがいわゆるのちの陰陽師安倍晴明の呪具となるのである。しかし小さい安倍童子=晴明は、いやだいやだかあさま、いやだと泣いて泣いて・・・父にひきずられて森を出たのだった・・・。

いわゆる説教節「けいせい信太妻 しのだづま」はそのまま晴明の誕生秘話でもある。

★阿倍野は安倍氏が作った村、秋田・佐藤氏と九州
そして和泉の信太森と大阪の間に阿倍野が作られた話も、ここに出てくる。安倍氏は古代の阿部氏であるが、仲麻呂を出したこの氏族、東北にも深く関わる。いわゆる阿部一族は秋田で、蝦夷討伐に加わり、そこで蝦夷たちと和合・融和策をとり、婚姻して秋田氏が生まれている。この地方に多い佐藤といった氏名はなぜか西では筆者故郷の大分県に多い。我が家の近所にも佐藤さんはごろごろいる。大分県ではほかに紀、紀野さんも多い、これはあきらかに紀氏・木部であるが、佐藤は藤原を助けると書くけれど、出自はあまりよくわからない、義経にかしづく奥州藤原氏に佐藤氏があり、それが平氏討伐で西の宇佐まで来たと言うがさて?真偽はわからない。そういうありきたりな伝承では筆者は満足していない。



★河内陶邑と渡来人と異界とシャーマン
安倍氏は大阪に阿倍野村を作るのもそのわけはあまりわからない。なにしろ四天王寺の南であるし、そこから南部は古代では陶邑のあった泉州があり、それもまたシャーマン・オオタタネコの末裔である大三輪氏の出身地である。大和の大物主を鎮撫する大神神社神職という有名氏族だ。おそらくだが、大阪南部はある意味、アジールであり、古代から渡来人や職人、芸能民の集まる異界であったであろう。奈良や大阪から見ると、そこは異人たち住まう、おそろしき世界である。そういう場所から安倍氏は出てくる。そして平安京で賀茂氏から天文道を習い、陰陽師晴明が登場した・・・。もちろん安倍晴明には実在の晴明と、お話の晴明がある。後者はいわゆる虚像であり、実際の安倍晴明は御所近くに住む官僚のひとりに過ぎまい。脚色したのは和泉信太の陰陽師たちだろう。


★くずのは、くずは地名は渡来、秦氏地名?
鳳は筆者、若い頃少し働いた。おおとりウイングスというショッピングセンターである。近くに大鳥(白鳥)陵古墳があり、ヤマトタケルの古墳とも言われている。ブログ友達が近所に住んでいる。偶然であるが、自分は、行ったところ行ったところの歴史を調べてみるのが好きなので、西日本各地の歴史を知るところとなってしまったが、鳳近辺は非常に縁を感じ続けてきた。晴明の母親の名前「くずのは」は、先日地震のあった北部の枚方市にも樟葉があり、結婚して最初に澄んだところ。大分に帰ってからあちこち散策したときにも、宮崎県境に葛葉を見つけている。どこもかつては森だったところである。また、滋賀県に晴明塚があったり、福井県の気比に晴明神社があったり、なにかこう晴明に縁を感じさせられてきた。


★幸若舞は舞村の陰陽師作
舞村の「まい」はそこで幸若舞という説教節、のちの浄瑠璃の謡曲になっていった独特の節が生まれたからだという。ただし舞と言っても仕草や舞踊があったわけでなく、単に節回しであり、舞は舞村発祥だという意味しかない。こういう芸能が陰陽師と深い関わりのあることは折口信夫の著書に詳しい。折口信夫「信太妻」https://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/18402_14348.html

というよりも、そもそも縄文時代から、シャーマンと音曲、楽器、舞踏は欠かせない憑依の道具である。だから陰陽師もその流れを汲んだ人々の仕事であろう。詩歌・歌舞音曲・神楽・・・。


ところで私事だが、小学生の同級生に舞という苗字の可愛い少女がいた。舞なにさんだったかは覚えていない。のちに中学三年生で、ある学習塾で再会したのは覚えている。信太狐のように色白で、線の細い、しかし度胸のある頭のいい子だった。これも偶然だろうが、まさに彼女は歌舞音曲の似合いそうな風貌だったことをいま思い出した。ご先祖は泉州出身かも知れない・・・。ただしぼくのタイプ(男の子のような活発な子タイプ)ではなかったので、それまでである。



実は京都にも聖社はある。
八瀬にある。
蒸し風呂の「竈風呂」が有名。虚無僧がいたところ。

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比叡山の麓。高野川源流。大原のすぐそば。普段は森の中の小さな祠でしかない。

もっとも聖自身が全国歩くから日本中にある。「ひじり」は仏教修行僧もひじりだし、陰陽師や行者、虚無僧、修験者、みんなひじりであるから、それぞれの関係は不明である。一概に「ひじりじんじゃ系」などとくくれる神社ではない。すくなくとも、和泉市の聖神社は晴明や安倍氏だけでない、すべての陰陽師ゆかりの社であろう。そして大阪南部の泉州・南河内が深く奈良、葛城山の役の行者修験道とも深い関係があることは間違いない。さらに考えられるのは物部氏の本拠地である八尾渋川やその奥にある斑鳩、さらに中世には楠正成と後醍醐天皇の南朝・・・つまりお気づきとは思うが「歴史の敗者ゆかりの土地柄」であることに気がつかねばなるまい。そうした風土から安倍氏は登場するのだ。


★古代阿部氏
阿部氏は「あえ=贄」氏である。和え物の「あえ」。そのそもそもは飛鳥の神饌、贄の係りだった氏族。平易に言えば食事係だ。神の、とつくからただのコック長ではない。神饌という厳格なノウハウのある仕事で、神職のひとつである。「かしぎや」「トキ」とも。そもそもからシャーマンなのだ。だから秦氏や賀茂氏との婚姻は充分あったはず。



★正しい墓所と社は五条中島宮川町!
さて、一応の結論はもう見えている。
安倍晴明の正しい墓所と神社は、五条中島中州の宮川町にあった。そしてそれはすべて鴨川の藻屑と消えた。そして結果的に、鴨川の水と共に、大阪湾へ流出し、生まれ故郷の大阪阿倍野へ戻ったのだと考えたい。あたかも場所さえ知れぬ「石川」の砂礫に消えた柿本人麻呂の遺骸のごとく。





恋しくば たずね来てみよ 難波江の 水の藻屑の うらみ晴明
本歌取り Kawakatu謹製






おあとがよろしいようで。

参考文献 西川照子『幻の京都 隠れた歴史の深淵を訪ねる』2014
その他サイト



PS  安倍晋三首相も安倍氏・阿部氏である。
道理で人心をよく翻弄する? 

ちなみにフランス語でアベーはアベック。
あっかんべー。




次回、京都から一旦離れて
百済観音は誰がモデルか?
お楽しみに。


京都ディープはまだまだありますので、それもお楽しみに。