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一条堀川の晴明神社(堀川今出川下る)



現在の晴明神社はちょうど安倍晴明が天文(陰陽道)を上賀茂神社神職だった賀茂忠行親子から学んだその賀茂氏の、もうひとつの神社・下鴨神社がある今出川の二川合流地点の河合から、今出川通りで真西にある。知らぬものは少なかろう。京都の河川や堀川の流れは、ずいぶん往古とは変わっているが、創建当初はWikiの言うようにかなり広大で、今はやや南にある一条戻り橋を渡るとすぐ鳥居があったように聞いている。今はやや北にあって、社域は小さい。境内に小さな戻り橋のレプリカがある。大学生だった頃の雰囲気は今はあまりなく、晴明恋しの女性向けにすっかり変わってしまった。観光地化して、神秘性は見る影も無い。土産物屋と晴明ギャルのオンパレード。羽生君や野村万斎 さんのおかげで、ますますそうなったようだ。



晴明神社(せいめいじんじゃ)
「1005年に晴明が亡くなると、その時の天皇一条天皇は晴明の遺業を賛え、晴明は稲荷神の生まれ変わりであるとして、1007年、その屋敷跡に晴明を祀る神社を創建した。当時の境内は、東は堀川通り、西は黒門通り、北は元誓願寺通り、南は中立売通りまであり、かなり広大であった。しかし度重なる戦火や豊臣秀吉の都市整備などにより次第に縮小し、社殿も荒れたままの状態となった。幕末以降、氏子らが中心となって社殿・境内の整備が行われ、1950年には堀川通に面するように境内地が拡張された。」Wiki晴明神社


一条戻橋がかかっていたのは、堀川へ流れ込む支流と堀川の合流点で、今とは様子がずいぶん違う。橋は今よりもずっと小さく、それでも鬼が住むと言われて、三善清行(みよしのきよつら・ゆき)と息子・蔵浄貴所(ぞうじょうきしょ)の、一条戻り橋・清行よみがえり譚や、渡辺綱の鬼女退治で有名だが、今もそこがある種のアジ―ルだったことを教えている。絵図を見ると、戻り橋が見える別の橋のそばには料亭?があり、酒盛りをしている。戻り橋は堀川に架かっていたのではない。

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都名所図会・一条戻り橋




現代の戻り橋は堀川に架かっている



都名所図会の戻り橋 水路というよりまるでただの下水管の水口のよう。絵の描き方がへただ。狭い水路だったことがわかる。橋が小さいのも当たり前か。
向かって左右に流れる堀川に流れ込む水路に戻り橋は架かっている。
一方、現代の一条戻り橋は堀川用水に架かっている。


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そういう事情もあってか、晴明神社には往古の小橋としての戻り橋の模型が置かれている。
小さな播磨屋橋といった風情。








橋はあっちの世界とこっちの世界の架け橋である。修験道では無明の橋とも言う。
それは芸能では、歌舞伎の花道や能狂言舞台の花道に意味は同じである。ハレとヶ、彼岸とうつせの通り道。冥界への入り口でもある。一条天皇らしい選択地に晴明神社はあったのだ。

戻り橋というのは、清行がヨミガエッタ橋だったのでこの名前になったけれどこの橋の下には鬼というよりも、異界の人々が住んでいたのだろうと思われる。いわゆるセンミンである。しかし絵図で見る限り、どうにもそんなスペースもない、狭い水路である。おそらく疎水同様、こういう細い水路は農業用水として角倉了以らがつくったものなのだろう。治水王だった秦河勝(はたのかわかつ)よりもずっとあとの話だ。


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角倉稲荷の晴明墓所


さて、晴明神社の裏側に角倉了以を祭る角倉稲荷(すみのくら・いなり)があり、今はここに晴明墓所第一候補が置かれているが、晴明の最初の墓所はここではなかった。詳しい調査は先達に譲るが、おおまかに言って、最初は五条の中洲、宮川町あたり、往古、鴨川は川幅が非常に広く、というか秀吉の護岸工事がなされていない時代には、氾濫川で、流域面積が一定ではない。鴨川沿いの宮川町は、今の通路で言うなら、京都国立博物館から南座へと抜ける大和大路に面しており、四条の川原からでも、晴明の塚上にたっていた松の木が見えたと記録にある。ちょうどそこが中州で、五条大橋の北東である。鴨川の氾濫を抑えるために、花山天皇が依頼し氾濫を止めるよう言われて晴明は呪文、シキガミ(式神・職神)を駆使して鎮撫し、そこにあとから晴明自身が法城寺という寺を建てた場所である。今、建仁寺と恵比寿社のあるあたりが山崎町だが、往古も山崎町であり、恵比寿社の裏側あたりに法城寺があって、あとから晴明をしのぶ信者たちが塚を造った。この場所が五条橋中島と呼ばれた中州だった。「法城」とはさんずいが水、去が去るで、洪水が去る。城は土を盛って成すで、五条橋中島の中洲を治水・安堵したという寺名になっている。晴明の呪の言葉である。



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新改洛陽并洛外之図
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五条大橋右上の鴨川川端にある三角地帯が五条中島区域。大和大路の建仁寺左に夷とあり、そこが今の恵比寿社で、その裏が晴明塚と記入されている。ここに法城寺と晴明の墓があった。




その後、応仁の乱もあり、秀吉の区画整理と治水で、鴨川も現在の流れになるのだが、それまでは三条大橋から南は松原橋も団栗橋も四条大橋も架かっていなかったと思われる。四条通りはまだ狭い道でしかなく、今のような三条をしのぐ大繁華街とはほど遠い。小さな橋が架かっていただけである。今でも五条通のほうが非常に巾が広く、なぜ?かと言えば五条大橋は清水寺の入り口だったからだ。五条通全体が清水の参道なのである。特に、五条通が河原町通りと交差するところの広さは、最初筆者が、五条の骨董市でそこに行った時に、どうしてこんなに広いの?と感じたほどの広さである。義経と弁慶がなぜ五条大橋で出会い、その翌日また清水寺で出会うかというと、それだけ平安末期の京では五条通は繁華街だったからだ。



そもそも鴨川は秀吉以前は橋が架けられるような状況に無く、水が少ないときは、大きな中洲がいくつも点在するような状態。大雨で氾濫するとすぐにも橋は流される。法城寺も晴明塚も、おそらく秀吉時代にはすでに流されてしまっていたに違いない。だからここに空也を祭った平清盛の時代には、松原橋を渡った宮川町一帯は六原と呼ばれるような異界であった。えた・ひにんたちのたまり場であろう。そこに清盛は六波羅探題を造り、六波羅と呼ばれるようになる。いわゆる京都のニンピ人どもの管理・監視も重要な役目であった。ゆえにこそ空也を祭ることも重要だったのだろう。せん民たちの信仰を集めていた彼を置くことが、にらみになったのだろう。そもそも仏教が言う六道(ろくどう・りくどう)とは異界のことである。かつて宇治にもその入り口には六地蔵という異界があったわけだが、六道の辻というように、古代には庚申さまが置かれたような辻や三叉路に六地蔵が置かれる。網野義彦の甥っ子の哲学者中沢新一などは特にY字路の別れを、どちらかの道を選ぶ場所として、死生観の象徴であり、記紀などは八岐=やちまたとも言う。天之八衢(あめのやちまた)。いずれにせよ、木の股神がいたのは樹木の股やムロであり、洋の東西を問わず、股には黄泉とこの世の境目があるとされた。六波羅もそんな住民がいたのであろう。そしてそこは河川のすぐそば、湿地で、雨が降れば氾濫し死の世界になり、そういう場所で動物が解体され、トサツと皮革なめし屋の横行した川原なのである。今でも七条塩小路通り(京都駅前の通り)には靴屋が多い。

筆者の通学路だった。あやかしの出ていた路である。当時、大学生の筆者は今熊野に住まったが、そこはちょうど東大路塩小路東イル。すぐそばに京都国立博物館、京都女子大、日吉ヶ丘高校、智積院、妙法院、三十三間堂、大和大路、泉涌寺、赤十字病院、東福寺などなど・・・まあ、どこかしら死の匂いのするような?そんな場所だった。新幹線が音も無く、トンネルをぬけてやってくる・・・トンネルの向こうは米原、岐阜羽島といったそれこそ京都から見れば異界の東国への入り口だった。だから熊野信仰がめばえたのだろう。その今熊野神社の西が伏見稲荷へ通じる本町通、旧日本軍ゆかりの師団街道だった。
 

実はこの晴明塚こそ最初の墓ではなかったか?という説がある。しかしそうした墓所は実は日本各地にいくらでもある。筆者も福井の敦賀に遊んだときに晴明神社があって驚いたことがある。宮川町にあった晴明塚は、記録で民間信者によって土が盛られたとあるので、そういうもののひとつではあろうが、なにしろ晴明が建てた法城寺境内だったわけなので、そういう伝承地である各地の晴明塚や神社の、ここが発信地であったことには間違いない。



現在の五条大橋から見た鴨川中州
これの数倍以上の規模の中洲が鴨川の東側にはあった。鴨川は広かったのだ。






Kawakatuの戯言、独り言
そもそも安倍晴明は安倍氏の出身だが、安倍氏と賀茂氏には深いかかわりがあったようだ。

そしてその賀茂氏は下賀茂で、松尾の秦氏と婚姻関係にあって、晴明は一時期、上賀茂神社に住んでいた。そこで賀茂忠行・保徳親子から天文を学ぶ。その後、お話では秦氏から出た蘆屋道満と呪術対決して勝つわけだが、伝説では晴明の母親は葛の葉と呼ばれた九尾の狐だとあり、まさかそんなことはないだろうが、葛の葉の生まれ故郷は大阪の泉州の信太の森。安倍氏の出身はやはり大阪市の阿倍野である。

堺市と阿倍野は隣接するが、いずれも秦氏や百済人らの居住地である。つまり筆者は安倍晴明は秦氏の血も引いていたと言いたい訳である。中島の晴明塚には稲荷の別名がある。晴明を稲荷神=ウカノミタマの血縁と、民衆は信じていた。五条中島宮川町と伏見稲荷大社は、本町通りで一本でつながっている。本町通りは深草から稲荷を経て祇園まで通じている。稲荷の秦氏はこの道を使ったはずである。今は疎水が通り、疎水に沿った川端通りへとつながっている。そして晴明神社もまた、すぐ西に太秦そして松尾があるのだ。面白いことに上賀茂神社の摂社・浮田社には晴明の先祖に当たる奈良時代の阿倍仲麻呂と晴明、そして渡来系の神であるスサノオが仲良く祭られている(藤木正直・上賀茂神社社家で、同じく社家・馬場義一の甥。 ばんばよしかず。馬場(ばんば)家は代々上賀茂神社社家で最高裕福な家柄。孫は歌手のばんばひろふみ(さちこ、いちご白書をもう一度)、その妻は歌手の平山美紀(真夏の出来事))。

晴明は五条鴨川を鎮撫とかではなく、実際に治水して、法城寺を建てたに違いない。だから中島の人々は彼を顕彰して塚を造った。その治水の技術とはいったい誰に教わったのか?母方だった秦氏からではないか?大阪阿倍野の秦氏はどこにいたのだろうか?母親がキツネであろうはずはない。それは伝説でしかない。おそらく葛の葉は阿倍野秦氏の娘ではなかったか?そもそも信太という地名や葛に、秦氏の影がくっきりと示されているのではないか?


信太の森神社の葛の葉廟



藤木さんは上賀茂社家の有力者は、代々西賀茂にある墓所に葬られてきたといい、西川照子はそこに晴明の本当の墓もあるかも知れぬと書いている。はてさて?
法城寺は最初真言宗寺院で、のちに浄土宗となって知恩院に属し、寺の名は心光寺となったという。古代山背葛野の秦氏は蜂岡にあった広隆寺で真言密教とカバラを成していた。だから晴明も真言宗寺院を建てたのだ。







さて、ところがなぜか晴明の墓所の記録は、五条どころかまった離れた嵯峨野の天龍寺裏(右京区嵯峨野角倉町(すみのくら・角倉了以の領地だったところ))にあったことが記録されている。晴明神社宮司の山口さんは「昔からそう伝えられてきた」とおっしゃるが、天龍寺が管理していたその墓所全域が、後世、土地ごと別の寺に売却されている。それを初めて聞いたとき、筆者は目を見張り、あぶり餅の串がのどにささりそうになるほど驚いた記憶がある。最近、ある書物でそれを再確認し、あのあぶり餅屋で聞いた話はほんまやったか!?と、再びびっくり。

その寺の名前はさいぜん戯言に書いた「心光寺(しんこうじ)」という。(瀬田勝哉『洛中洛外の群像 失われた中世京都』「失われた五条橋中島」1994年 発表は1988年「月刊百科」平凡社)

しかしこの寺もやがて場所を変え、山号だけにそのゆかりをとどめているのみ。号は法城山晴明堂心光寺である。今もちゃんとその山号で三条大橋東に存在するが住職が亡くなったそうだ。

心光寺とアクセス https://kyotofukoh.jp/report422.html

三条京阪ターミナルにある池田屋跡の、三条通をはさんだ北側にある。京都花ホテルの裏側あたり。

心光寺は晴明の法城寺の移転された寺であることは、亡き住職の子供の頃まで、寺で使われていた仏具や食器に、法城寺の名があったというので間違いないだろう。しかし今はそうした仏具はないそうだ。処分したのだろう。

宝井 其角の『花洛名所図会』1862に五条大橋東の晴明塚の記録がある。そこには「晴明社」とあって、塚のあったところが法城寺ではなく晴明神社だったと書かれている。寺の中に塚があり、それが江戸時代には晴明神社だったことになる。ということは、現在の晴明神社とはまったく場所が離れることになる。この伝承と晴明神社は、それぞれ洛中と洛北の二箇所で、別々にはじまることがわかる。要するに今の堀川通り一条アガルの晴明神社は、「あとから?」一条天皇が秦氏関係者などの進言?によって?、晴明の屋敷があったという?今の場所一帯に置かれた?
いくら寵愛されたとは言え、いっかいの陰陽師にそれほどの敷地が持てたのかどうか知らない。しかも御所の西と言う一等地だ。???

ついでだが、京都の条里制を見ていると、二条と一条はとんでもなく離れていることが気なる人もいるだろう。三条~十条まで、まあまあの一定的間隔で並ぶのに、一条だけは非常に離れているのは不思議だ。

さて、宝井其角はもうひとつ書いている。
宮川町の清圓寺(せいえんじ)のそばに晴明社(塚)はあって、宮川町に新道を造るのにその土地を平坦にしたので、道観親王がそのおりに晴明大明神として晴明塚を建てた。塚には紅梅が満開だ。

道観親王とは有名な歌人でもあった蝉丸法師のことである。醍醐天皇の四之宮(第4子)。なぜ蝉丸が晴明の塚や社を建てたのだろうか?しかもその後、清圓寺も消えてしまう。やはりその後の氾濫があったのだろう。

ところが蝉丸はある場所で晴明とともに像として安置保管されていたのだ!
それはまたまたまったく場所が離れたビブレ京都の裏通り(裏寺町)にある誓願寺さんである。この裏寺町は筆者の学生から社会人の期間の、安息の裏道で、よく通った道である。


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寺町ビブレの横から道(図子)があり、まっすぐ京都花月劇場に出る裏道である。夜には往古は屋台が多かった。20円寿司のすみれ寿司とかよく通ったものだし、彫金の店などもあった記憶がある。寺が多いので寺町だが、繁華街の寺町京極、新京極とは並行の道なれど、人影少ないアジールでもある。西川はこういう裏辻のことを「図子 ずし」と言っている。広い大路に対して大路と大路を結ぶ小路,または辻のことである。別名 辻子、十字、辻、通子、厨子、途子などとも書く。御所、晴明神社そばには図子町がある。
 


手前左が晴明、右が蝉丸、奥は妙法寺教円のそれぞれ木製坐像
なぜこの像が裏寺町誓願寺にやってきたかは次回のお楽しみ。


そしていよいよ晴明墓所もあきらかに?





ここでKawakatu、目がちらちらしてきたので、一旦切り上げて、明日以後続きとしたく思う。ご期待のほど。