●太陽神は東西へ駆け巡り、東王父は東の岸へたどり着く 



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いまや太陽は 昨夜西海に解き放ちし馬の群れを駆りて 東邦の岸に至り 新しき曙光(しゃっこう)に先ず目覚めしセレスの人は 再び 和毛(にこげ=うぶげ)生うる林より生糸を紡ぎ始めぬ  シリウス・イタリクス(1世紀ローマの詩人)




畢勒国に小馬の如きものあり。駒は日に千里をゆく。毛は垂れて地に至る。東公王(東王父)は常にこの馬に騎して、朝は湯泉を発し、夕べは虞淵に飲ひ(みずかひ)、一日一夕往返すること七、八度。亦言う。馬毛は長く自(おのずか)ら空中に放たれ、即ち是を吹くこと、或いは東に、或いは西なり」郭憲(後漢の詩人・イタリクスとほぼ同時代人)『洞冥記』





「太陽が東から西へ動くのは、太陽神が馬車に乗って天空を駆けるからだ。ギリシア神話のヘリオスもインド神話のスーリヤもローマ神話のアポロンも、太陽神は馬車に乗る。ペルシア軍は外征出陣のときは常に背の高い馬を「太陽神の馬」と称して引いて出陣した。いわゆるトロイの木馬はヘリウスの四頭立ての馬車の馬や、ペルシア軍好みの背の高い馬から考え付いた木馬なのだろうか」クルティウス・ルフス「アレクサンドロス大王伝」1世紀ローマの歴史家



以上の故事・叙事詩を念頭に以下の4年前の記事をお読みいただきたい。






羌 きょう
中国西域の民族
姜とも書く。姜も羌も羊=美を意味するが、尊称でもある。
チベット系遊牧民。
言語はチベット・ビルマ語属
現代のチャン族がその子孫だと言う。
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『後漢書』西羌伝では「羌の源流は三苗、姜氏[1]の別種」とあり、とても古い時代から中国の人に知られていたようである。紀元前5世紀に戎族出身の無弋爰剣(むよくえんけん)という者が現れ、彼の一族に率いられた者たちが羌族を形成していくこととなる。



この部族で最も有名な中国人は太公望侶(呂)尚と伝説の人物・徐福である。
周王の軍師。斉(せい)の始祖。西域遊牧民羌族の出身。

太公望は殷(商)を滅ぼした褒美として東部の山東省あたりを頂戴して斉を建てた。

その斉の首都が臨淄(りんし)である。

ここの人々の遺伝子にはコーカソイドのものが多く含まれていたことはご存知と思う。


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「2000年に東京大学の植田信太郎、国立遺伝学研究所の斎藤成也、中国科学院遺伝研究所の王瀝らは、約2500年前、2000年前の臨淄(りんし)遺跡から出土した人骨、及び現代の臨淄住民から得た遺伝子(ミトコンドリアDNA)の比較研究の結果を発表した。

それによると、
●約2500年前の春秋戦国時代の臨淄住民の遺伝子は現代ヨーロッパ人の遺伝子と(非常に近く)、

●約2000年前の前漢末の臨淄住民の遺伝子は現代の中央アジアの人々の遺伝子と非常に近く、

●現代の臨淄住民の遺伝子は、現代東アジア人の遺伝子と変わらないものであった

これによって、古代の「中国」の住民を構成した人間集団が現代の中国人集団とは異なる集団を含んだ多様な構成を示したのではないかという仮説が浮上してきている。」
http://d.hatena.ne.jp/quesaisje/20110619/1308484001



ウイグル・キルギスに近く、テュルクにもやや近い


しかもその遺伝子は
八割以上で山口県土井ヶ浜の遺骨の、顔の長さ、ほお骨の厚さなど主要な値が一致。骨から推定した平均身長も渡来系弥生人(男性一六三センチ、女性一五〇センチ)とほぼ一致

さらに
「東大理学部の植田信太郎助教授(人類学)らは、約二千年前の中国・山東省臨錙(りんし)の遺跡から出土した人骨と、同時期の詫田西分遺跡から出土した人骨のDNAを分析し、遺伝子の配列が特定の部分で同じ人がいることを確認」

「江南人骨日中共同調査団(山口敏・東京国立科学博物館名誉研究員が団長)は、江蘇省の墓から出土した六十体(二十八体が新石器時代、十七体が春秋戦国時代、十五体が前漢時代)の頭や太ももの骨、歯を調査。特に、歯からDNAを抽出して調査し、福岡、山口両県で出土した渡来系弥生人と縄文人の人骨と比較。結果、春秋戦国時代人と前漢時代人は弥生人と酷似。DNA分析では、江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代末)の人骨の歯から抽出したミトコンドリアDNAの持つ塩基配列の一部が、福岡県の隈西小田遺跡の人骨のDNAと一致した。」

以上はすでにこのブログで四年前にアップしている。





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日本にもスキタイ・コーカソイド的な遺伝子を持つ人々が来た・・・というのがこの記事の目的であった。遺伝子の65パーセントぐらいが白人と同じ遺伝子を持った人。それはスキタイ系遊牧民だろう。これまでもステップロードでは白人的男性・女性のミイラ・遺骸が見つかっている。それが福岡、山口、日本海側に来ているのである。







山東省臨淄遺跡へは、おそらく太公望に付き従って羌族が移住したと考えるのが常識なのだが、斉は11世紀に建国されており、遺伝子調査されたのは1000年古い2500年前と2000年前の人骨である。するともともと山東省には羌・姜族のような白人系遊牧民が移住しており、だから太公望はそこを望んで頂戴したということになるのだろうか?

「殷を倒した後に太公望が斉に封じられたが、当時の周の実力では東方には影響力を及ぼせず、(らい)と呼ばれる族がこの地域にいた。領地を与えたと言うよりは、太公望に東方を制圧する事を命じたと言った方が実情に近いだろう。太公望は莱を討ち、現地の風俗に合わせて政治を簡素にし、この地方を安定させた。三監の乱の時、成王は「東は海に至り、西は黄河に至り、南は穆棱に至り、北は無棣に至る間の五侯九伯が罪を犯した場合、これを討伐して良い」と命じた。」Wiki斉


ではその莱族とは?
「莱族(らいぞく)とは莱語を母語とする人のこと。遼東半島、山東半島に居住する多数派の民族である。しばしば莱民族や莱人(らいじん)とも呼ばれる。
莱族は遼寧省、山東省における最多の少数民族である。また、黒竜江省、江蘇省、吉林省、台湾省にも居住している。
莱語はシナ・チベット語族に属する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8E%B1
人種不明。







最初にあげた詩歌・叙事はみなスキタイやテュルクやコーカサス騎馬遊牧民が太陽信仰を持っており、太陽神は騎馬か馬車で東西を往来したとしてある。つまり騎馬民族を太陽神に見立てているのだ。その太陽神をセレス=中国人は東王父と考え、西王母には絹を織る大地母として枷(かせ・いとまき)を持たせた。それは日本ではアマテラス=機織女、スサノヲ=騎馬民族となった。


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そして実際に、彼ら騎馬民族は西から中国東岸の山東省臨淄に至っていたのだった。その民族が莱族であったなら、周王が太公望にそれを撃たせた理由は、彼らがどちらも騎馬遊牧民の子孫で、滅亡させてもあとの人民は羌人である太公望を慕うことになろうという予測があったからだろうか?

そして彼らの王家は6世紀に滅びたときに、果たして筑紫の犬鳴川にやってきただろうか?「小馬」を引き連れ、水を与えるために。船に乗り、さらに太陽に近い倭国の竹原へ・・・。