■下巻第十九 卵のような肉の塊から生まれた女が、仏法を修め、人を教化した話。

肥後国八代郡都(やつしろのこおり)豊服(とよぶく)の郷(熊本県下益城郡松橋町)の人、豊服広公の妻が懐妊して、宝亀二年(771)の冬十一月十五日の午前四時ごろ、一つの肉塊を生み落とした。肉塊は鳥の卵のような格好であった。夫婦はこれは吉祥ではないと思い込んで、入れ物にいれ、山の石の中に隠して置いた。七日たって行って見ると、肉貝の殻は破れて、女の子が生まれていた。夫婦は赤子を取り上げ、改めて乳を飲ませ養育した。これを見聞きした人々は、国中だれ一人として不思議がらないものはいなかった。

 その女の子は八ヶ月も過ぎると体が急に大きくなったが、頭と首がくっついて、普通の人と違ってあごがなかった。身の丈は三尺五寸ほどである。生まれながらに物を知り、天性賢い子であった。七歳にならない年齢で『法華経』、八十巻『華厳経』を転読した。しかしこのことは黙っていて、人に誇ろうとはしなかった。

 女の子は出家して尼になろうと思い立ち、髪を剃り、法衣を着、仏法を修めて他人を教化した。だれ一人としてこれを信仰しない者はいなかった。声量が豊かで、聞く人はみな感動した。しかしこの尼の体は通常の人間とは異なっていた。女陰がないので結婚することもなかった。ただ尿を出す穴だけがあった。そこで愚かな人たちは、嘲笑して、猿聖(さるひじり)といった。



 当時、同じ肥後国託磨郡(たくまのこおり)(熊本市出水町)の国分寺の僧と、豊前国宇佐郡八幡(うさのこおりやはた)(大分県宇佐市)の宇佐八幡宮の僧の二人が、その尼をねたんで、
「貴様は異端者だ」
ときめつけ、見下げあざけりからかうと、仏教の守護者が空から降りて来、桙で僧を突こうとした。僧は恐れ叫んで、そのまま死んでしまった。



 大安寺(大和国奈良左京)の戒明禅師が、九州の大国師に任ぜられたとき、宝亀七、八年(776.7)のころに、肥前国(佐賀県)佐賀郡の郡長、正七位上佐賀君児公が安居会(あんごえ)を催した。その時、戒明禅師を招き、八十巻『華厳経』の講義を請うた。その講義を尼は欠かさず多くの人の中に交じって聴聞した。講師の戒明禅師は尼を見ると、

「どこの尼だ。無作法にも聴衆の中に交じっているのは」
と叱った。

尼は、
「仏さまは平等の慈悲心で、一切衆上のために正しい教えを広めなさる。どういうわけでわたしを除け者にするのですか」
と尋ねた。

 さてそこで尼が、仏教詩の詩句の形式を整え、それをもって質問したときに、講師の方は詩句の形式を整えて答えることができなかった。大ぜいの知識僧たちは不思議に思い、ひたすら尼に質問を浴びせた。しかし尼は最期まで負けなかった。そこで、人びとは、この尼は仏が人間に姿を変えて現れた者であることを知り、さらに名を舎利菩薩とつけた。僧も俗人もこの尼を信じ敬い、尼を教化の重要な人物とした。

 昔、釈迦が生きておられたとき、サエ城のスダチ長者の未婚の娘ソマンが卵を十個生んだ。それが割れて十人の男の子が生まれ、それがいずれも出家して阿羅漢果(あらかんか)の悟りをえたという。また、カビラエ城の長者の妻は、懐妊して一つの肉塊を生み、七日の後、その肉塊は破れて百の童子が生まれた。その後、彼らは一時に出家し、百人全部が阿羅漢果の悟りをえたという。わが日本の一握りほどの狭い国土でも、このような奇譚の人を得た。これはまた、まことに不思議なことである。









■上巻第三十 非道に物を奪い、悪い行いを重ねた報いを受け、世にも不思議なことが起こった話 (その一)

 膳臣広国(かしわでのおみひろくに)は豊前国宮子郡(福岡県京都郡)の次官であった。藤原の宮で天下を治められた文武天皇の御代慶雲(きょううん)二年(705)の秋九月十五日に、広国は突然この世を去った。死んで三日目の十七日の午後四時頃に生き返って、以下、次のように告白した。

「二人の使いがやって来た。一人は大人で髪を頭の上で束ねていた。いま一人は小さい子であった。私、広国は二人に連れられて行った。駅を二つばかり過ぎると、道の途中に大きな川があった。橋がかけてあり、その橋は黄金で塗り飾ってあった。橋を渡って対岸に着くと、目新しい見慣れない国があった。使いに向かって、
『ここは何という国ですか』と尋ねると、
『度何(どなん)の国だ』と答えた。その国の都につくと、八人の役人がやって来て、武器を持って、私を追い立てた。前方に黄金の宮殿があった。

門に入ってみると、そこに王がいた。黄金の座席に座っておられた。大王は私に向かって、
『いま、お前をここに召したのは、お前の妻が嘆き訴えたからなのだ』とおっしゃった。すぐ一人の女を召し出した。見ると死んだ昔の妻であった。鉄の釘が頭の上から打ち込まれ、尻まで通っており、額から打ち込んだ釘は後頭部に遠ていた。鉄の縄で手足をしばり、八人がかりで担いで連れて来た。大王が、
『おまえはこの女を知っているか』と尋ねられた。わたしが、
『確かに、私の妻です』と答えた。

また、
『お前は何の罪をとがめられて、ここへめしだされたのをしっているか』と尋ねられた。
私は、『知りません』と答えた。今度は妻に受かって尋ねた。妻は、
『私はよくわかっています。あの人は私を家から追い出した者なので、私は恨めしく、口惜しく、しゃくにさわっているのです』と答えた。(そこで広大とその以前に死亡した妻との過去の事実が詳しく調査せられたが、その後で)大王は広大に、『お前には罪はない。家に帰ってよろしい。しかし、決してこの黄泉の国のことはしゃべってはならんぞ。それから、もしそなたの父に会いたいと思うなら、南のほうに行ってみるがよい』とおっしゃった。


その二



 行ってみると、本当に父がいた。非常に熱い銅の柱を抱かされて立っていた。鉄の釘が三十七本もぶち込まれ、鉄の鞭で打たれている。朝に三百回、昼に三百回、夕べに三百回、あわせて九百回、毎日打ち攻められている。私は悲しくなり、
『ああ、お父さん。わたしはお父さんが、こんな苦しみを受けておられようとは、まったく思いもよりませんでした』と嘆いた。父は次のように語った。

『私がこんな苦しみを受けていたのを、息子よ、お前は知っていたのかどうか。私は妻子を養うために、ある時は生き物を殺した。ある時は八両の麺を打って十両の値を取り立てた。ある時は軽い秤で稲を貸し、重い秤で取り立てた。またある時は人の者を無理に奪い取り、また他人の妻をおかすこともした。父母に孝行も尽くさず、目上の者を尊敬することもせず奴隷でもない人をまるで自分の奴隷でもあるかのように、ののしり、あざけった。このような罪のため、私の体は小さいのに三十七本もの釘を打ち込まれ、毎日九百回も、鉄の鞭で打ち攻められている。とても痛く、とても苦しい。一体、いつの日になったらこの罪が許されるのか。いつの時にか体を休めることができものであろうか。お前はすぐにも私のために仏を作り、お経を写し、私の罪の苦しみを償ってくれ。忘れないで必ずやってくれ。

 私は飢えて、七月七日に大蛇となってお前の家に行き、家の中に入ろうとした時、お前は杖の先に私を引っかけてぽいと捨てた。また五月五日に赤い子犬となってお前の家へ行った時は、他の犬を呼んでけしかけ、追い払わせたので、私は食にありつけず、へとへとになって帰って来た。ただ正月一日に、猫になってお前の家に入り込んだ時は供養のために供えてあった肉や、いろいろのごちそうを腹一杯食べて来た。それでやっと三年来の空腹を、どうにかいやすことができたのだ。また私は兄弟や身分の上下を無視し、道理に背いたので、犬と生まれて食い、口から白い泡を出してあえいでいる。わたしはまたきっと赤い子犬になって食をあさることになるだろう』と語るのであった。

 およそ、米一升を施す報いは、あの世で三十日分の食もつがえられる。衣服一着分を施す報いは、一年分の衣服がえられるのである。お経を読ませた者は、東方の宮殿に住むことになり、後には願いのまま、天上界に生まれる。仏菩薩を仏像に作った者は、西方の無量浄土に生まれる。生き物を放してやった者は、北方の無量浄土に生まれるのである。欲望を抑え一日断食すると、あの世で十年間の食料が得られる。
 このほか、生前この世で善いこと悪いことをして、それからうけたあの世での報いなどを見てから地獄を出ようとした。そしてわたしはしばらくその辺をぶらぶらしていると、小さい子供がやって来た。すると、さっきの門番はその子を見て、両膝を地につけてひれ伏した。その子は私を呼んで、片側の脇門に連れて行き、門を押しあけた。そこから私が出ようとすると
『早く行きなさい』といった。わたしは、その子に、
『あなたはどなたさまですか』と聞いた。その子は、
『わたしが誰だか知りたいと思いますか、わたしはそなたがまだ幼かった時に写した「観世音経」なのです』
と答えた。そしてそのまま帰ってしまった。ふと見回すと、生き返っていたのである」という。

 広国は、黄泉の国に行き、善い行いが善い報いをえ、悪い行いに悪い報いが帰ってくるいろいろな例を見たので、この不思議な体験話を記録して、世間に広めた。
 この世で罪を犯して、あの世でその報いを受ける因縁は『大乗経典』に詳しく説いてあるとおりである。誰がこれを信じないでいられようか。このようなわけで、経典に、「この世で甘露のような甘い汁を吸っていると、未来は熱い鉄の玉を飲まされる」といっているのは、このことをいうのである。広国は、生き返ってから、父のために仏像を造り、お経を書き写し、仏・法・僧の三宝を供養して、父への恩返しをした。父の犯した邪悪の罪を滅ぼし、これからのというものは、広国ともども正しい道に入ることができたのであった。

参考引用掲載 日本霊異記 中田祝夫著 講談社学術文庫










■第十七 戦乱にあって観音菩薩の像を祈り、この世でよい報いにあった話


 伊予国(愛媛県)越智郡の郡長の先祖にあたる越智直(あたえ)という人は、百済の国を救うために、百済の国に派遣された。方々に転戦していた時に、唐の軍勢に追いつめられ、捕虜となって唐の国まで連れて行かれた。そしてわが日本人の八人が捕虜となって、同じ一つの島に住むことになった。八人は観音菩薩の像を得て、これを信仰し、あがめ奉っていた。八人は共同して、松の木を伐って一隻の舟を作った。そして観音像をお迎えして舟中に安置して、それぞれが無事に日本に帰れるようにと観音像に祈願した。すると西風が吹き出し、この風に乗ってまっすぐに九州に到着した。

 朝廷ではこのことを聞き、事の次第をお尋ねになった。天皇は哀れに思われて、望むところを申すようにとおいいつけになった。そこで越智直は
「新しく一郡を設けていただき、ここに観音様を安置し、礼拝奉仕したいと思います」
と申し出た。天皇はこれをお許しくださった。そこであたらしく越智という郡を設けて、そこに寺を建て、観音様を安置することになった。その時から今日に至るまで、越智直の子孫が相ついでこの像を心から信仰している。

 思うに右のことは観音のご利益であり、また観音信仰の結果であろう。昔、親孝行の丁蘭(ていらん)が母の木像を造り、それに仕えた事により、本当に生きているような姿を示してくれたし、僧が愛した絵の中の女性でさえ、僧をいとしんでこれに応じてくれたという。ましてやこれは観音菩薩である。どうして感応のないことがあろうか。


参考引用掲載 日本霊異記 中田祝夫著 講談社学術文庫





最後の話は白村江戦いの話になっている。
伊予の越智直は越智国造の一族で、海人族だったから百済救援にいかされたのだろう。信濃安曇野(長野県北部)の安曇連もやはり救援に行ってはなばなしく戦っている。

船の民の多くが、この海外軍事派遣で出向いていたことがわかる。

地名に当時の行政単位であるはずの評が使われず、越智郡になっている。この話が書かれたときはもう奈良時代だからか?違う。ほかの霊異記記事でも多くは里は村になっていて国政単位は無視されている。その時代にそうだったのである。

越智直は現地で捕虜になって島に放り込まれた。
たぶん今の舟山諸島のようなところが収容所だったのだろう。今も舟山には観音道場になっている。

それが戻ってきて、天皇はこれを哀れに思い、願いを聞いてやっている。福岡市に越智姓がいくらかある。ここだろうか?




最初の話は朝鮮や日本に多い「卵生説話」の残存が奈良時代にあることがわかる。
しかしこの夫婦はこれを吉兆とは見ていない。むしろヒルコ扱いで土中に埋め隠している。しかしそれでも女子が生まれたから持って帰り育てる。ところが女子には女陰がなかった。やはりこれはヒルコ=異常出産児だろう。

恵比須はそういう異常出産した胎児のことを神格化したものである。出雲神話では八重事代主と言う。「やえ・ことしろ・ぬし」葛城鴨氏の神社高鴨アジスキタカヒコネ神社に鎮守されている。オオクニヌシの子で、国譲りで船に乗って魚釣りしており、出雲を譲ると言ったあと海に消えたという。海人族の神であろう。




真ん中の話は豊前国宮子郡の話。今の福岡県京都郡である。行橋市あたり。ここは豊前国国府・国分寺跡があるが、そこに膳臣(かしわでのおみ)が国司に次ぐ介(すけ)で来ていた。

膳臣氏は古代の斎(にえ)の官吏である。神前に供物をささげた氏族。大伴氏の一派。
神使えた氏族も、仏教では観音にひざまづくのだと言っているのだろう。因果応報。