「1998年に奈良国立文化財研究所が、飛鳥池遺跡から出土した木簡の中に、「天皇」の語が墨書きされたものがあると発表した。この木簡は飛鳥池遺跡の北地区の、持統朝を下限とした溝のさらに下層から出土しており、同じ遺構から「庚午」天智9年(670年)、「丙子」天武5年(676年)、「丁丑」天武6年(677年)の紀年木簡が伴出している。

また、この遺構から伴出した木簡の「里=サト」単位を「五十戸」としてあった。飛鳥石神遺跡から出土した多量の荷札木簡から、「サト」が「五十戸」から、のちの「里」に切り替わったのは、飛鳥浄御原令の編纂が始まった681年から683年頃であることが分っている。これらより「天皇」の表記は、683年以前(天武11年)に存在していたことが分る。

※(「国―評―郷―里 くに―こほり―おおさと―こざと」の制定は孝徳朝。その前は里は五十戸と書いた。その後天智朝には評は郡になった。「国―郡―郷―里」。)

唐の高宗が「天皇」の称号を使用し始めたのが上元元年(674年)8月であり、倭国では683年には既に「天皇」表記を使用していた。定説の「天武天皇(672~685年)に対して最初の『天皇』号が捧げられた」というのが成り立つためには、この僅か10年間に、倭国が唐から「天皇」の称号の情報を得ていなければならない。この事が可能あったか検証してみる。674年8月以前でも、684年以後であっても、不可なのである。
唐から情報を得るとすれば、「遣唐使」の帰国の船である。第6次の遣唐使船の帰国は668年で674年8月以前であり不可。第7次の遣唐使船は出発が669年、帰国年は不明である。20次にわたる遣唐使船の中で、出発と帰国が明確な船は、全てが2年以内に帰国している。これからすると、第7次も674年8月以前ということになり不可である。第8次の遣唐使船の帰国は704年で684年以後となり不可、遣唐使船はいずれも天皇元号の成立に関わることはなかった。
http://syoki-kaimei.blog.so-net.ne.jp/2013-07-13-1

天皇を天武が初めて称するのは死後かその直前である。最初から天皇を称したのは妻の持統女帝から。だから「天皇制」のはじまりと言うと持統からとなる。

天皇制が始まったので飛鳥浄御原令の編纂は開始された。だから律令→天皇制ではなく、天皇制→律令であったことになる。天皇と称したから日本の法律は考えられたのだ。

大王時代には法律はないのである。

聖徳太子の17条憲法?あとから考えられた創作憲法だ。考えたのは藤原光明子と藤原仲麻呂しかありえない。このときから日本人は聖徳太子と17条憲法、和を以って尊し」という聖人・法律があったのだとすっかり思い込み、現代までの1300年間、信じてきた。

ただ、藤原氏はそれを、飛鳥の蘇我氏の手柄だとはどうしてもしたくない。日本国号開始も、律令の始まりも、蘇我氏の事績を消したかった。日本国号と天皇称号は天武からとしてあり、律令は聖徳太子からだとしたほどである。だから蘇我氏の国史を、記紀編纂以後、すべて消し去ったのである。

蘇我氏王権までは大王である。そして天皇と大王のつながりを、継体を河内王権の養子縁組外籍王として置き、天武と天智が兄弟にすることで、大王と天皇の系譜が、切れていないと思わせたかった。