道教は中国の思想。
漢代以前の太古から民間にあった信仰に黄老思想などが混ざり合いつつ分派していった。黄とは黄帝、老とは老子。「道(タオ)」の追求と神仙思想を中心とする。

黄老思想(こうろうしそう)は、中国、戦国時代から漢代初期にかけて流行した道家の一学派の思想であり、その学問を黄老の学という。黄老道(こうろうどう)とも言う。黄帝を始祖とし老子を大成者としたことからこのように称される。 君主が天道に背く君主の勝手な行動をとることを禁じ、また秩序維持のために社会に過度に干渉することは避け、 さらに統治にかかるコストを下げるべきとする考えであり、漢代初期においては最も影響力をもった思想であった。」Wiki黄老思想


「道教とは、中国民族の固有の生活文化のなかの生活信条、宗教的信仰を基礎とした、中国の代表的な民族宗教です。
それは漢時代以前の巫祝(ふしゅく)信仰や神仙方術的信仰および民衆の意識などが基盤となって、漢代に黄老(こうろう)信仰が加わり、おおむね後漢(ごかん)末から六朝(りくちょう)時代にかけて形成され、現在でも台湾や香港(ホンコン)などの中国人社会で信仰されています。
初期の道教的信仰は、不老不死の神仙を希求したり、巫術や道術による治病や攘災(じょうさい)に重点を置いたが、儒教や仏教と競合し、影響しあい、内的修養や民衆的道徳意識の堅持を中心とする信仰をも重視するように発展しました。」


「道」とは事物・事象の始まりと終わりを意味する漢字、観念。文字解析すると首は始まり、シンニュウが終わりで、タオ=真理の追究とその完遂を示している。

道教には、民衆道教と成立道教(道観道教)がある。歴史的にまず民衆の巫覡(男女シャーマン)の「呪」によって不老長寿探求、神仙思想などが生まれ、やがてそれらを構成し、すべてを動かす宇宙の摂理としての道が加わって道教と呼ばれるようになった。大成に最も深く関わったのが老子である。


では道教が日本に渡来したかだが、3世紀、神仙思想の絵柄を持った方格鏡や四神鏡、のちには神獣鏡が到来しており、まず北部九州、次に瀬戸内を経て畿内に入っているが、北部九州のものが最古の2世紀前であるので、その渡来には二つの説が考えられるだろう。ひとつは北魏地域、韓半島からの渡来と、船の交流によるダイレクトな江南あたりからの持ち帰りの二つである。両方あったと言えるが、最初はダイレクトに九州の海人族が持ち帰る可能性が高い。

一方東瀬戸内~畿内へは、北部九州経由と、ダイレクトな吉備地方への渡来が考えうる。しかし、畿内での三角縁神獣鏡が限りなく国内製品であって、あるいは舶来品も公孫氏~伽耶・百済を通じての登場が、やや北部九州よりも遅れることから、畿内は3世紀後半になったようである。

おそらく大和では、吉備・葛城といった先行する流入者たちが、北部九州の影響下にあっても、別のルートで日本海沿岸を経由した流通網を半島と持つことに始まったと思える。その証拠に、不老長寿願望を起源としたいのちの再生を絵柄にした弧帯文が2世紀吉備楯築に始まり、瀬戸内各地や播磨を経由して3世紀に大和に入り、公孫氏の影響によってそれがさらに洗練された弧文へと変化して纒向に登場しているらしいからだ。

その後、古墳時代になると弧文は発展せず、なぜか古い弧帯文に×印をほどこした直弧文が登場し、広く各地の石室や石棺や埴輪などに刻まれることになった。これはまさに吉備・畿内に始まる弧帯文式の神仙思想絵柄の否定の模様であり、主として北部九州で使用されているので、九州が畿内新勢力のイデオロギーを拒否し、吉備系氏族管理者たちの墓に、呪の絵柄として貼り付けたものに相違ない。つまり当時すでに大和が吉備系氏族を地方へ派遣して在地を管理、税の徴収も開始していたことの証拠品が直弧文であり、死後、在地ではその再生を封じた絵柄だと筆者は考える。


その後記紀などの記録には道教とは確定はしにくいが、「道観」「天文遁行」などの言葉が斉明女帝~天武天皇の間に多く書き記される。ことに斉明女帝の「たぶれ心のみぞ」や「ふたつきの宮」を道観、楼閣などとしているのは、飛鳥時代には確実に道教と呼べる思想が来ていることを想像させる。

思えば3世紀の卑弥呼らの信仰は、鏡や弧文で見るとどうやら道教的であるにも関わらず、中国はそれをあくまで「鬼道」としてあり、それらが黄老道教以前の民間思想であったからだろうと考えつく。それは公孫氏や古い江南文化の残る中国南部の、黄河文明以前の原始信仰であったためだろう。ちょうど秦河勝が富士の大生部多らの蓬莱神仙思想を懲罰したように、似てはいても異教のしろものだという認識なのである。


日本で確かに道教的な信仰を行うものとして登場するのは役行者が最初だろう。呪を以って宇宙の摂理を広めようとし、修験の開祖となった。葛城山を本拠とし、山と山とに橋をかけ、自在に行き来したとある。すなわち日本の修験道は、道教を基盤にして、仏教や儒教もないがしろにしない、しかし還俗のままというあくまでも古いシャーマニズムを基盤に置いて天文や宇宙摂理に迫ろうとする邪教ゆえに朝廷に圧力をかけられることとなった。


その弟子が韓国連広足である。出自は物部氏。役行者は葛城山の高鴨の賀茂氏とされるが、高鴨の賀茂氏と秦氏と葛城氏には最初から古い縁故があった。京都の鴨氏と秦氏は、秦氏が渡来するとき葛城襲津彦がつれてきて葛城山麓に隣り合って住んだ。そこから山城南部~宇治~深草と移住し、秦氏は葛野、鴨氏は下賀茂へ定住。ここでも婚姻し、同じ神話を共有する。葛城山麓はつまり彼らの原点である。


さて、では道教に関連して渡来について考えたい。天日矛と都怒我阿羅斯等から始めよう。上田正昭の考察を参考にしながら。


天日矛の本拠地兵庫県出石に近い豊岡市に、都怒我阿羅斯等が祭られる福井県敦賀市の気比(けひ)という地名がある・・・。


続く