カバラ Cabbala
カッバーラとも
ユダヤ教神秘主義(オカルティズム)の用語 




カバラ奥義とされる生命樹

カバラ(קַבָּלָה qabbalah, Kabbala, Cabbala)、カバラーとは、ユダヤ教の伝統に基づいた創造論、終末論、メシア論を伴う神秘主義思想である。独特の宇宙観を持っていることから、しばしば仏教における密教との類似性を指摘されることがある。しかし、これはもっぱら積極的な教義開示を行わないという類似性であって、教義や起源等の類似性のことではない。Wikiカバラより




キリスト教「創世記」で、アダムとイヴは神の言いつけに背き、禁断の木の実を口にして楽園を追われる。そのイヴの望んだ不服従によってそれまでの神の恩恵を失って、人類は堕落した。しかし反面でその堕落は、古代的な神からの分離であり、それを克服し、再度神と結ばれようというのがカバラが生まれた背景である。

知恵の木の実を食べたとは、つまり日本で言えば縄文から弥生時代への変遷になろうか。日本ではそのとき卑弥呼という女性シャーマンが登場した。ある意味で、ほかの世界でなら政治・侵略王が出現すべきところで、日本では歴史に逆行する女王の出現だったのかも知れない。そうしなければ男性社会は落ち着かなかったというのだから、日本はまだ半分縄文の精神状態だったことになろうか。

イヴが木の実をアダムに勧めるという部分は、西欧社会でもいまもそうだが、女性は直情で動くといった偏見を表していると思える。



カバラがいつ、誰から誰へと授受されたのか創世記は書いていない。アダムとイヴからだという説や、神からモーゼへ口伝されたという説があるが、いずれにせよ一部の特殊な人間しか知らない秘儀(ミュステリア)である。

無数の匿名の人々の記録を集めた資料として『創造の書』(セーフェル・イェツィラー、2000年前)と『光輝の書』(ゾーハル、13世紀スペイン)がある。

カバラは「異なるレベルの現象を同時に内包する」とされ、いわば小池百合子の好きなドイツ語のアウフヘーベンにも似た、矛盾止揚法であるらしい。どっちにせよ心的な達人ということだろう。聖徳太子などまさにカバラの人に描かれたかに見えてくる。ならばそれは秦氏の影響であったのだろう。なにしろ世界中の事象に精通していたのが秦河勝である。ユダヤで言うなら多神教と一神教が同時存在するのがカバラである。相対立する二物をどちらも否定せずに同居させる。

ということは、手のひらと甲のようなことである。表裏一体は人間そのものだと言えよう。もともとはさほど神秘性もなく、単に神の真意を探り、ユダヤ律法の遵守にまい進する、やはり哲学に似たものだった。それを神秘的にしていったのはキリスト教神秘主義者であった。神秘主義者というものは、なんでもかでも神秘なので、そこにこの引きこもり人生観追求学問がまんまと利用されたわけである。



象徴図が生命の木(セフィロト・上図)である。
神の意志であり、その非人称的な境地であるところの無限(絶対無)から流れ出た十の宝珠(セフィラ)を枝でつないだ絵柄。それが無と有のつながりを示す。瞑想によって神との直接的なつながりを求める。そのために代弁者を置かないかバラは、ほかの宗教から異端視された。

これがヘルメス学では、人間世界の小宇宙、神世界の大宇宙の結合を追及するとなっている。ここにも天球をつきぬける心性の超越と上昇が言われていて、どちらもどこか老子を思わせるが、カバラにはどうもそれが違う方向性を持つようにも感じる。

カバラがあるゆえに、キリストは迫害されたのかも知れない。イエスはキリストであり、神の預言を伝えるものであるので、カバラの奥義には反するものとなるのだろう。


いずれにせよカバラは応用され、ルネッサンスのキリスト教徒によって、天使の面と悪魔の面の解放の道具ともなっていった。本来のユダヤ教徒のカバラはこのとき形を変えられてキリスト教神秘主義に変じてしまったと言えるだろう。本来はもっと哲学的だったはずだ。それは密教とも似ている。カバラの語源はヘブライ語キッベールで、意味は「受け入れる」。つまりあるがままに神の意志を受諾するで、神さえなかったら老子と同じである。神を宇宙の摂理と置き換えれば、道・無為になっただろう。


生命樹は、中国でも神樹というものが神仙思想や道教にはあって、世界中を覆う大樹=世界樹が祖霊をして魂を持ち帰らせるよりしろという思想はアジアには多い。それはキリスト教世界では聖者の持つ杖であり、クリスマス・ツリーである。結局は宗教も人間の根源、登場する意味を知ろうとしていた痕跡ではあろう。それがたまさか、地球生命体の進化の系統樹と似ていた。当然である。思考はうねる。そして渦を描くものだ。だが科学はその観念的把握を、たんたんと、神も主観も神秘もなくあばいていった。その粛々として無感情なのを、嫌がるものもいるということだろう。





いずれにしても老子の言う無為自然、あるがままの客観性からは、やはり宗教はほど遠いといわねばならないのは残念である。ただ、カバラは錬金術を産み、やがてそこから西欧科学は生まれる。要するに「神」とは何かを、神とつながろうとしたか、神と別れようとしたかが、宗教と科学の違いであって、はじまりは大差がない。

結局、人間がおのれをコントロールしたいと願うなら、科学の客観性にまさるものは今のところなさそうだし、一方で、悩みやつらさから解放されたければ宗教はいまだに健在ということになるのだろう。


凡人Kawakatuはたそがれの一献とよい肴さえあれば、神はいなくてもすぐ解放されちゃうのだがなあ。



人生は無為が一番。
学生時代の京都で足しげく通った店が「むい」だった。
草に埋もれては寝たのですのフォークシンガーの店である。



所詮、どうしても、神を持つ限り、人間は自然に干渉してしまうようだ。頼れるものはおのれだけ。死ぬときは別々だ、と、どうも多くの人はあきらめられないらしい。死ぬのが怖いんだろうな。





次回、アボリジニの祖霊について







※道徳経の徳のほうは、老子では第三章あたりから説かれているが、世俗的なものばかりで重要ではない。王の生き方を徳としてあるばかりだ。したがって大事なのは第一章と第11章だと今は筆者は捉えている。