「道可道、非常道。名可名、非常名」(『老子』第一章冒頭)
直訳訓読;道の道とすべきは常の道に非ず。名の名とすべきは、常の名に非ず。

『老子』は老聃(ろう・たん)が説いたとされる「道」理論である。

まずこの冒頭の一文からもう難解で、では先を読み進めばいずれ解けるのかというと、次から次にますます茫洋として難解になってゆく。つまりまずはこの冒頭言の意味をしっかりと解釈しておく必要があるようだ。つまり「道 タオ」のいく通りものケースバイケースでの語彙使用法が重要。一口に道と言っても普通名詞の「道程」、その道程を極めるという動詞、さらに名詞でも道程よりも奥深い哲学的な宇宙の「摂理」の三通りの意味を老子は使い分けている。

すると冒頭言はこう解釈することになる。

「人生の道理道程とは、いわゆるわれわれが歩いている狭い日常の道理なのではなく、宇宙の根源である摂理だってことさ」

簡略にすると、「普段生きてゆくうえでの道理とは日常的な小儀のタオであって、大事なのはもっと大きな大儀の道理、それは宇宙の摂理なんだわ」となろうか。

この小儀の道理というのは、老聃の時代なら孔子の儒教を指すことになろうか。儒教は道教と比較すればまあ、処世術、それも官僚・貴族のための道徳論で、確かに老子道に比べてやや日常的である。だから無学な人でもそこそこ理解しやすく、共感される部分があり、王侯貴族に迎え入れられた。比べて道教はあまりに茫漠として観念的でもはや哲学で、崇高すぎるだろうし、さらには文章表現があいまいで、単語の持つ意味が複数あって、相当な知識と教養が必要である。で、その小儀の道はおれが言う道ではないんだ、もっとどでかいものなのだ、とまず冒頭発文でぶちまけたわけである。

卑近に言い換えれば、「これこそが道だ!などと言える様な道は道じゃねえぞ。道ってのは、もっと不朽の、茫漠たるものなんじゃぞえ」となるか。要するに老子は、人間のさらに前の存在に道があるとあの時代に知っていたわけである。

それは、人間が生きている地球でさえも、大地も天も、もとを正せばある天然の摂理によって生まれ、摂理に動かされてこうなったのだという途方もない天文学・遺伝子学的な(アウタートリップとインナー・トリップ)発想で、むしろ仏陀の言辞に近い思想になるだろう。それを宗教的な神秘性なしに、この人は科学と哲学で観念的に理解できていたのである。

続く「名は・・・」がまたすぐにはわからない。名とは名状、命名だろうか。すべての現象・事象・事物を分類した上で分析してのち、名前がつけられることであろう。その名前にすら道同様、三種類の意味があると。名前は名前であるが常の名前ではない・・・なんだ?こりゃあ。

これも前文同様に簡略化すれば「真実不変の名とは、これが名だぞと言える様な代物じゃない」と解釈できる。その意味は続く文章で見えてくる。

「名無きは天地(てんち)の始め、名有るは万物(ばんぶつ)の母。故(ゆえ)に常(つね)に無欲(むよく)にしてその妙を観、常に有欲にしてその徼を観る。」
天地が創られた時には名など存在せず、万物が生み出された後にそれらは名づけられたのだ。だから無欲な心をもってすれば、万物の深遠なる姿を見る事ができるだろう。欲望の虜のままでは、万物の上辺の姿しか見る事ができない。

「両者は同じきに出でて而(しか)も名を異(こと)にす。同じきをこれを玄(げん)と謂(い)い、玄のまた玄は、衆妙(しゅうみょう)の門なり。」
これら万物の二つの姿はそれぞれ名前は違えど、同じ一つの根源から生じている。その根源を「玄 =深遠なる神秘」と私は名づけたが、その玄のさらに玄、神秘を生み出すさらなる神秘からこの世の全ては生み出されている。

いわばDNA。DNA遺伝子を作り出したモノ、それが玄である。いや、すべてのこの宇宙の現象と事象・事物は、みな、この摂理によって突き動かされているのじゃ。

考えてみればその通りだろう。それを古代・・・紀元前6世紀?の春秋戦国時代に、老子は思いついた。科学なんてまだ存在しない時代である。宇宙など誰も見たこともない時代。ソクラテス(紀元前460年代の人)が生まれる100年も前である。ただし老聃が実在したかは不確実で、のちに荘子らが道思想の始祖として創作した可能性はあるが。

少なくとも、老荘思想はこのように、「神とは宇宙の原理・摂理」であることを看破していたということになるだろう。まずこの冒頭一章を読んで、そのことに気付くものが現代で、どれほどいるだろうか?この摂理を理解したなら、まずは現代社会にまで残存する神秘主義や宗教のやまいは完治するはずなのだが、なぜかそうはなっていない。そこが実に人間の不思議である。







話は違うが、筆者がいつも不思議なのは、将棋指しという商売である。あれほど難解な、天文学的な組み合わせの一手を思いつけるほどの知能の持ち主が、なにゆえに将棋などというやくざなゲームの世界に生きるだけなのか?である。おそらく天は二物を与えず、将棋盤という小宇宙を「道」「摂理」探求の最上の手法と考えてのことかと思いたいのだが、いまだ将棋指しが宇宙の摂理について語るのを聞いたことがない。なにゆえに人間の役に立つ数学者とか化学者とか物理学者にならずに将棋指しなんだ?ただのギャンブラーではないのか?誰か教えて欲しいものだ。

もっとも、いくら哲学を究めたところで、確かに金にはなるまいが。それに比べれば、将棋は金にはなる。それで生きていけるらしいことはわかる。ピアニストだってそうだ。どちらも何か、将来の人類に役立つ実利・実業とはいえない。しかしピアノは、音楽は、人を楽しませ心を豊かにできるが、将棋は個人の小宇宙であって、オンリーインナートリップだけで、外へのアプローチが皆無な競技ではあるまいか?それで生きていることになるのが不思議でしょうがない。

ところが実業家や政治家たちは、なぜか将棋や囲碁に世界を観て、そこからヒントを得るらしい。つまり戦略がそこに垣間見えるからだろう。つまり将棋には兵法があるようだ。そうかゲームとは人生か・・・。ならばそれは実世界の小儀の道であろうかな?



しょせん、多くは小儀しか観ずに死ぬってことだな。なるほどそれで「しょうぎ」か。


しかし大半の人類もまた、せいぜい小儀の中でしか生きてはいないってことだなあ。
おれもそうなんだな。それが普通ってことさね。