およそ生物学というものは、高校生の頃からそう感じてきたことだが、自然科学でありつつも、どこか詩的で、文学性や宗教性を同時に持つところのある科学で、多くの生物学徒の最初のとっかりとして存在しただろう昆虫や、野鳥への子供の頃の傾倒から文系の人でも接しやすい学問であり、まさに少年時代の昆虫の美に魅せられたと言う福岡伸一が、その混沌とあいまいの、境界線のない現実世界に気づいたことには、さしたる違和感はないと感じてきた。筆者も昆虫にはまったし、生物学の授業は台好きだったからよくわかる。

彼の風貌がそうであるように、輪郭のかすんだ、うつせにも精神的異界にも、いったりきたりできる類稀なヒトであろうことはうすうす感じていた。

生物学が科学の範疇にある限り、彼もまた、その分化して切り刻み、顕微鏡でインナートリップし、極力冷酷に、冷静に、客観的に「なぜ」を追求して逝くしかなかったわけだろうが、その過程で、同じ科学者たちが到達できえないはずの、ある境界線を越えてしまうことに成功してしまう。

これはまことに稀な、選ばれた人たちの行く先なのだと思う。


彼の主張の根幹は在来の、冷徹で、客観的過ぎる、人体や生命体を「モノ」「機能」「機械」としてみてしまいがちな分析・分化の科学から、あるとき、行き着いたものだけがたどり着ける境地・・・あたかも空海の死生観、仏教がおしなべて許容しているセックスという「必要悪」の重大さに、あっというまに到達できた学者なのだと言えるだろう。彼は筆者同様にある種の方程式を、いとも簡単に、心的、霊的、また文学的な、主観のよいところに置き換えることに気がついた。



動的平衡・・・。



これについて次回から、書くが、実は非常に難解である。しかるにこの一週間、いやひとつきほど、どうやって平易に、文科系にも一瞬で理解できる解釈を提示すれば言いかで、哲学的に悩み続けている。いまもまだ「へいこう」についての説明だけで迷っている。それほど私はおろかな人間だと、痛切に知らされている。これは平衡に関するぼくの閉口した時間の解説になってしまいかねないほどの混沌的な理解の遍歴だ。

明日から書こうと思っている。同時に、書きたくない。


まず平衡の解説から明確にしておかねばならない。福岡の動的平衡という表現は、平衡の科学的な意味の原点よりも、二次的意味の、「マクロでは変化していないが、ミクロでは毎日人間は変化、更新されている」にあるように思っている。ならばそれは動的平衡としては比喩的な表現になる。


簡単に言っておくなら、ぼくたち人間は、毎日すべて、中から外まで脱皮して更新されるのであり、食べたものも、ほとんどは吸収されずに、体内の老廃物と共に排泄されているということなのだ。おそろしき脂肪でさえも、吸収されるのはわずかにコンマいくつの割合で、ほとんどが排泄される。その流動することこそが生命なのだと言うのである。

鴨長明は「行く川の流れは絶えずしてもとの水にあらず」と哲学、人生観、死生観を書いたが、われわれの「生きている」とはまさにそのの流れそのもの。細胞の集合体である人間の体は、あいまいで、福岡の相貌さながら、輪郭は明確ではない。まるでスラーの点描画のように、点と点の集合体に過ぎない。単細胞が寄り集まって一個の個体に見せて入るが、実は噴霧器の霧のあるまりなのだ。

私は家にたったひとりで生きているが、毎日毎時、ぼく肉体からは死んだ角質細胞がフケや垢となって部屋に零れ落ちている。そのままではいつか部屋の床は角質化した老廃細胞で埋まってしまう。ところがそうはならないのは、ぼくがせっせと掃除機をかけているだけではなく、ダニたちがそれを食ってくれているからなのだ。そしてダニたちもまた毎日毎時、食べた分だけ自分の老廃物とフンをぼく床にまきちらしている。それがどうなるのか。ダニよりもさらに小さな単細胞のアメーバたちが食べてくれているのだ。だから永遠にぼくと彼らの老廃物たちは、ミクロの世界でしか見えず、マクロの人間の視線ではなにも変化していないのである。

だが顕微鏡を使ってみれば、毎日毎晩、床は変化し、ダニも変化し、ぼくの皮膚も内部も、髪も、爪も、変化し更新されているのだ。「今日もあいかわらず」どころか、生物は毎日毎時、更新され、脱皮し、変わっているのである。


これで福岡の言っていることは少しはわかりやすくなっただろうか?















続く