『やまんば』を今、布団の枕元に置いて、寝る前につんつんとつまみ食いしている。
市原悦子の2013年発行の対談集である。恩地日出男さんらとの楽しい思い出話である。

本のタイトルは市原自身がふっと思いついたらしい。
市原は昔話の朗読以来、自らを歴史の敗者となったやまんばと観ていたようだ。この本でも随所にそのような視点が出てくる。

彼女の敗者の視点は、最初柳田國男が、さらに考古学者森浩一が、あるいは小説家井澤元彦なども、過去に語ってきたことと、合致するところがある。歴史書は勝者が書き残し、民俗誌の生活観でも、繁栄するものが、そうでない山の民や海の民を「やまんば」にしていったという見方である。だから日本史や迷信には、その結果、悪・穢・黒・祟り神にされてしまった存在が山ほど出てくる。被差別の人々と敗北者には共通点がある。それは畏れられ、化け物や鬼や反対に菅原道真のような祟り神にされた。それを過去の歴史学が真に受けて、論を展開して疑問すら持たなかったことと、民衆の平民が、それより下に被差別を置きつつ、一面では差別、侮蔑、嘲笑を浴びせながら近づけないように不可触とし。反面では神や鬼やにして祭り上げ、来訪神として崇め畏れたこととまったく変わりない迷信だったと言えるだろう。


恐怖や神秘の芸術や信仰は、戦争の時代、不遇な時代にはまず表に出てくることがない。ちょうど、流行歌が、不況の時には明るく、平和な好景気の時代には逆に暗いものが好まれてきたように。また、妖怪の姿かたちが明確化したのが元禄時代以後だったように。神秘や超常現象へのあこがれは常に平和に時代に出現する病気のひとつだ。


市原と常田が、むかし話を語り始める時代も、昭和元禄まっただなかだった。人々は生活を安定化させ、退屈し始めていた。新しい科学や、産業の発展や、即物的物質文明の中に飲み込まれ、自分を見失い、未来が見えなくなりつつあり、安息や普遍的な処世術にあこがれはじめていた。日本全体が、戦後の少年時代から、成長期、青春時代を過ぎて、30代の充実期へと向い始めたころ、常識的・伝統的な会社生活、家庭生活の観念に疲れ、支配感と強烈なストレスを感じるサラリーマンが増えていく。

大学で高い教育は受けたものの、大学出があたりまえになり、大学出の意味を失い始めていた。日本人の多くが、「はんなり」「やすらぎ」「慰安」「癒し」を欲するようになっていた。そういうときに、二人の語りが彼らを安息へ導いた。それはまるで『日本書紀』神話中のスサノオが、ヤマタノオロチを滅ぼし、出雲を平定して、須賀ですがすがしくなり、安来に来て落ち着いたのに似ていた。そして早くも後継者を育てたい時代であった。だから結婚や出産に対して人々は当たり前のごとく安定を見つけようとした。娘にはオオクニヌシのような立派な若者がもらいにきてくれることを夢観ていい時代だった。子供の頃から疲れきっている現代の若者とは、そこに違いがあった。彼らは家庭を持つことを安息だと考えたが、現代人は、ひとりでいることこそが真の安息だと気づいている。実存的命題の解答風に言えば、現代人は今も、今後も、「自分を支配する王こそは自分」だと気がついてしまっている。上司や教師や親やあらゆる年長者や経験者や権威者の影響を嫌うようになったのだろう。


市原悦子がその語りや演技で「日本の母親」になった時代は、そうではなかった。サラリーマンは疲れ、ある種の精神の敗北者、廃人となりつつあった。だから市原の琴線を揺らす、震えるようにか細いのに、真奥に、舞台俳優としての彼女の一本筋の通った生き方が見える語りと、間に、母を観たのだろう。母体回帰の時代だったといってよかろう。


今の若者は、生まれたときから安定を望んでいる。そのために徹底的に大人の思考性を排除した。自分自身を「かわいい~」子供、少女のままにしようとして、虚構に埋没し、ネットがそれを加速、擁護してくれる。バーチャルを排除し、仮装と仮想生活に埋没している。生活を嫌い、透明・ピュアな存在に自分を仕立て上げ、ウソの暮らし方にまい進する。内向に安らぎを見つけて、枠からはみ出さず、むしろ他者に排除されることを恐れる。そこに市原の言う平常とは正反対の生き方を選んだ異界者としての「やまんば」など一切存在しない。だから異界のものすら仮想的に作り出す。仮想の異界の人々は、だから必ず具体性とビジュアルが最初からついている。つまり最初からそれらはウソであることが建前であり、心底信じてなどいない。ただの話題性を託した「SNS映え」「ユーチューブ高視聴率獲得」する異界、超常現象でしかない。すべてがアニメの世界できていてもかまわないのである。自分さえ認められればそれでよい。認められなかったそれが真の恐怖と知っているので、逆切れする。

学校と言う擬似社会、会社と言う擬似社会、ネットという擬似社会に、必ず「やまんば」「敗者」「被差別者」を発見して、間接的にそれを誹謗し、中傷し、排斥し、ときには実際に殺したり、殴ったり、自殺させている。

確固たる生活者としての自分と成長を否定して、それに反するものを排他的に阻害・除外する。妖怪を作り出し、ペットに埋没し、神秘主義や超自然にあこがれる。うそをうそとせず、うそを重ねることで強引に現実としてゆく。そこにはかつての大自然への畏れや、神も存在しない。自分自身こそが自分の王だと決め付けてしまう横暴で、まったく他人に頓着しない生き方であることに気づかない。怪物・・・。


わたしには彼らが紙で作られた「やまんば」の見えている。



市原悦子はいい時代に死んだのだ。母なのだから、恐怖の子供たちだらけになる時代の前に死ぬ。それは人間の宿命である。妖怪たちも、いずれ年寄り、そのことに気づく年齢になる。そのとき、彼らの周囲にはもっと恐ろしい山姥たちが生まれ始めていることだろう。