千葉時代 チバニアンChiba-jidai前期・中期更新世境界の国際模式地「地質時代とは、地球上の岩石をその形成された年代に基づいて区分したものです。国際地質科学連合や国際層序委員会等によって国際年代層序表(International Chronostratigraphic Chart)として提示されて ...

  土曜日で講義は半ドン。はねてから深草駅で待ち合わせた。 京阪電車各駅停車三条行き。 彼女は乗車口のはじっこに立ってこちらを見ていた。 ビリジアンの深い長そでブラウスに、細かな茶と灰の格子のベストに揃いの普通丈のスカート。頭にニットの丸い帽子。     ...

  考えてみたら、すでにここまでに記憶違いがいくつかある。「しけもく」の完成は1974年の6月だったのだから、JunとSumiの出会いは本当は1974の春だったこと、これはさっき気が付いた。最初から季節を間違えて書き始めていたのだ。なんてこったい。 てことは、彼女のホー ...

 ワタシは、いったいなぜこんな過去の恋愛譚を、60過ぎた今頃になって書いているのだろうか?  それは記憶の確認。そして過去の自分の愛の形の間違いを、第三者としての現在の自分が、過去の自分に教えておかねばならないことに気づいたこと。しかし、映画でもなく、そ ...

 文学部学友会国文学専攻クラスの小さな個室というのは、正確にはなんというのかは知らないが、大宮学舎北側にある北黌(ほっこう)西端にあった円柱型の小部屋である。建設されたのは明治12年と古い。 そもそも龍谷大学そのものが日本最古の大学で300年以上の歴史があ ...

積年の敵対子孫同士が握手?geinousite.whdnews.com/p/1703/IoaPf66A1.html大河ドラマで来週から明智光秀をやるらしい。『麒麟がくる』だ。キリンとか希林ではなく、麒麟。池端俊策の原作脚本。まあ、定説を大きく上回ることのなさそうなものとなるだろう。長年、Kawakatuに ...

 その夏、キャンバスから消えたYは、夏休みにはカナダへホームステイしていた。そうらしいとは聞いていた彼は、密かに夏休みの課題の内容なんぞのサゼッションを書きしめた、大きな封書の手紙を実家へ何度か送っていた。 それまで互いにまったく知りもしなかったのに、いき ...

 1973年、彼が大学を京都に決めたのは、美術部時代から仏像・神像の模写ばかりしていたからだろう。 当時の京都の大学は、まだ学生運動の最中で、学内でもジグザグ行進なんぞが、小規模だがやられたり、時ならず赤ヘル、黒ヘルが投石しあい、女子学生が石が当たって顔面血ま ...

カタストロフィはすでに始まっている「地球上に存在する氷の実に90%を占める南極の氷床。たった1%とけるだけで地球全域の海水面が60㎝も上昇すると言われている。これまで南極の大半を占める「東南極」の氷床は岩盤の上に厚くのっていて気温も低いため、多少の気候変 ...

もう知識欲も少なくなったし、地球もこのままではどうなることかわからない。地球環境と皆口にするようになったが、気象は地球の表面上の現象であり、環境とは、地球内部まで知ってこそ語られねばならないだろう。地球は今や、大森林火災とツンドラ地帯の氷床溶解によるガス ...

にほんブログ村かつて大江健三郎は『万延元年のフットボール』という小説をものしている。Kawakatuは「令和二年の・・・」と銘打って、新年のことほぎを申し上げる。おしなべて西日本は、年末から今日まで、温暖である。これといって大災害も起ってはいない。まずまずの新年 ...

来年はどうなるのか・・・そんな先のことはわからない。今年はよい年だったのか・・・そんな昔のことは覚えていない。ただ、今を生きるで精いっぱい。神棚にお神酒を仏壇に花をそしてわが身には雑煮を風水では干支一巡して庚子(かのえね)方位は西、気は金気水陽。西を向き水 ...

 筆者、以前から医者は果たして「科学者」だろうか、それとも「技術者」なのだろうかということを、決めがたく思ってきた。おそらく、医者の本分は、学んできた技術だろうと感じてきたが、医師に言わせれば自分は科学者であり、技術者だと言うだろうとも思う。事実、医術に ...

鼻血1リットル噴出して入院。血圧208.原因は高脂血症なのに赤ワインでギュウスジ土手焼きのコンニャクに舌鼓しながら、乾燥期なのに、ラグビー日本戦で大興奮したから?あえなく入院。「あなた死にますよ」通告。お薬。バナナ、無脂肪ヨーグルト恵、すりごま、ナッツ、D ...

さきほどの記事に以下のような事柄を書いた。「面白いのは、マスコミの昼と夜の論調にそれが表れている。お昼のニュースショーは、中心視聴者が主婦や老人であるから、主観的な彼らに合わせて、宮迫を弱者、吉本を強者として扱う。ところが夜の報道ニュースでは、視聴者が帰 ...

シリカ(英: silica[1])は、二酸化ケイ素(SiO2)、もしくは二酸化ケイ素によって構成される物質の総称。シリカという呼び名のほかに無水ケイ酸、ケイ酸、酸化シリコンと呼ばれることもある。 シリカとは圧縮された地層の結晶である。ほかは素人は知らないほうがわかりやす ...

にほんブログ村チャート(chert)は、ほとんど微細な石英(SiO2)のみからなる堆積岩。 生物起源のものと非生物起源のものの両方がある。 生物起源のチャートは、主に放散虫などのシリカの殻を持つ微生物の死骸が遠洋深海底で堆積したもの。 非生物起源のチャートは、水中での熱 ...

「歩は本来距離の単位で,左右の足を1回ずつ運んだ距離であり(その半分は跬(けい)),それと尺との関係には変遷があったが,方1歩の歩の大きさの実態はさほど変化しなかったといわれる。【三宅 史】。…」コトバンク跬「後漢・魏の時代の一歩は六尺なのですが、後漢と魏では ...

本当にこわいのは豪雨の後、軽くなる大地が引き起こす大地震なのだ。 山が含んだ大量の水分が夏~秋に蒸散し、大地が軽くなると重さで沈んでいた大地は浮き上がる。それがプレートに大きなずれを引き起こすだろう。南海トラフ。数年後になる。恐ろしい。それが一番恐ろしい ...

http://palaeolithic.jp/data/index.htmデータベースからダウンロードできる例えば日本史の弥生時代を知ろうとするならば、当然その前の新石器・旧石器時代からすでに遺跡があったかどうかは、その地域の先進性とか、歴史的にそこに代々人が来たことの理由(地形・地の利など ...

にほんブログ村方段階梯積石塚 ほうだん・かいてい・つみいしづか中国吉林省から北朝鮮にかけて3世紀~4世紀に登場した階段式積石墳墓。青銅器時代の積み石塚を基盤として、その上に基壇を組む。将軍塚千秋塚高句麗の歴代王墓だと考えられている。日本の飛鳥時代の奈良県 ...

にほんブログ村あく【灰=汁】1 植物を焼いた灰を水に浸して得る上澄み液。アルカリ性を示し、古来、洗剤・漂白剤として、また染色などに用いる。2 山菜や野草などに含まれる、渋み・えぐみなどのもとになる成分。「ウドの灰汁を抜く」3 肉などを煮たときに、煮汁の表面に ...

にほんブログ村城野遺跡 じょうのいせきhttps://mainichi.jp/articles/20161115/ddl/k40/040/629000c動画https://www.youtube.com/watch?v=QxvY4FBnXq0広大な敷地にたった二基の朱塗りの石棺(組合せ式)。一基の石には線刻画が。どうもこれが四つ目のシャーマン方相氏ではな ...

にほんブログ村予告しておいた邪馬台国参考文献と展示資料館一覧は、あまりにも多すぎて書写していると死ぬので、勝手に探してください。中村の著作の最後にも掲載があります。遺跡一覧に佐賀、熊本、福岡の遺跡を追補しました。●方相氏(ほうそう・し)とは中国『周礼』に登 ...

九州だけでもこれだけありますので。弥生時代、邪馬台国研究に関わる全国遺跡一覧紀元前~古墳時代前期まで含む☆マークは是非行くべき遺跡※7月2日遺跡を追加■北海道・東北地方(弥生文化には北の道もあったことを知るために)北海道 北海道では続縄文時代の遺跡となる。江別 ...

にほんブログ村中華の史書には、紀元前1世紀の頃、倭の国々が分かれて100余国だったとあるが、魏志の女王国=邪馬台国の「使約通ずるところ約30国」と変化している。これを女王の連盟国家と考えると、その数が100のたった三分の一しかないことに気づくべきではないか?する ...

邪馬台国研究について、筆者は以前には纒向遺跡の詳細報告(石野)から見て、割合大和説に寄った書き方をしたので、今回は九州に寄った書き方をしてみた。筆者は、産まれてから高校生までを九州大分県の県都である大分市のど真ん中で過ごした跡、大学は京都、仕事は大阪や近畿 ...

意味のないことをクローズアップしたがるのはマスコミとヤマタイコク大和説であろう。邪馬台国が近畿にあった証拠に丹があったことをあげる。意味がないのではないか?丹とは中国では辰砂だが、日本ではベンガラだったり、水銀だったり、確定していない。まして中国に持って ...

前回書いた奴国の初期鋳型のある工房が見つかった遺跡とは、須玖タカウタ遺跡である。https://mainichi.jp/articles/20170726/k00/00m/040/158000c2017年の夏、この発見が、北西部九州工房と奴国工房の関係をあきらかにすることになった。一番の大発見は多鈕鏡(たちゅうきょ ...

奴国は福岡県博多の那珂川よりも東部、春日市を中心として遠賀川西岸部の丘陵ふもと部板付あたりまでにあっただろう小国である。その東端には不弥国に比定できるかも知れない比恵遺跡もある。ただし魏志では戸数は2万戸と記載され、邪馬台国に次ぐ人口を抱えた大都市だったよ ...

↑このページのトップヘ